仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2006/12/17(日)12:05

ピアノを考える

雑感(468)

昨夜NHKの週刊こどもニュースを見ていたら、何と黒田恭一さんが出ていた。子供向けにクラシック音楽の解説をしておられた。 日曜の朝は、最近どういうわけか仕事で車を運転することが多い。子供が同乗しないので、ラジオをかけ流す。そんな訳で、たまたま「音楽の泉」を聴くことが多い。日曜討論の前の時間だ。 この番組は皆川達夫さんが解説を続けている。今日は、途中から聴いたが、シューベルトのピアノ曲「楽興の時」の第3番ヘ短調と第5番ヘ短調を流していた。イモジェン・クーパーの演奏。 第3番はこの番組のテーマ曲でもあるが、皆川さんも言っているように、演奏者によってだいぶ雰囲気が違う。クーパーの音は、私は好きになった。表情が豊かで。ちょっと好き嫌いが分かれそうな感じだけど。 車の運転というのは、ほとんど小脳の世界なので、私の大脳は、ピアノという楽器の特性について考えていた。 ピアノは改良に改良を重ねて現在に至っている。高校の音楽の先生は、ピアノと自転車はもう改良の余地はない、と断言していた。 しかし、弦をハンマーで打つのがピアノの原理だから、強弱や機動性の改良が進んだとしても、基本的には音は点で提示するしか能がない。あとは余韻をどの時点で切るか、だけだ。弦楽器や管楽器、あるいは肉声のように、1個の音を発音しながら強弱やビブラートを示すことができない。そして、提示できる音も、鍵盤で事前に限定されている。ポルタメントや、トロンボーンのスラーのような芸当、あるいは細川たかしの楽譜上の音程を数度上に上げる自由な歌い方などは、とても及ばない。 つまり、ピアノとはこのように制約された楽器なのだ。出せる音はオクターブに12音だけで微妙な上下はできない。音の強弱はできるが、一旦発音したら最後、あとはいつ切るかだけ。考えてみれば、大変な制約だ。自由がきかない、そもそも不自由な楽器だともいえる。 だから、弦楽器がアルペジオ奏法を開発したように、ピアノもこの制約を克服して表現力を発揮するために、いろんな奏法が考えられてきた。細かいパッセージを多用するのも、このことと関係するだろう。弦楽器(例えばサンサーンスの白鳥)や管楽器(例えば新世界のコーラングレ)のように、ゆったりとメロディーを鳴らす名曲は、ピアノには本質的にありえない。 しかし、和声を表現でき、離れた音も自由に飛べる、個々の音をつなげて全体で「音」をどう構成するかで勝負できる。豊かな表情と細やかな感性の見せ所を作れる。何より、弦楽器や管楽器のように、重奏や伴奏が不要だから、音楽家1人の世界を表現できる。そんなわけで、やっぱり主流になりえたのだろう。 もっとも、点描画のようにしか描けないという基本的制約はあるから、ピアノで全体の「音」を出すためには、相当な熟達が必要だ。管楽器のように、コツを得ればいい、というわけには行かない。 別な角度から、電子オルガンとの比較で考えてみる。音を自由に操れるし、コードも音色も自由自在。こんな楽器(装置)があれば、あらゆる点でピアノが劣るはずだ。でも、ピアノの主流たる地位は揺らがない。 つまり、こうだ。もともと人間は制約されている。腕と指の数が典型だ。脳の働きだって無制限ではない。電子楽器でオーケストラを疑似表現できることに比べて、なんと物足りない事よ。しかし、音楽は人間の表現だ。制約を超えたコンピュータの実演会ではない。制約のある中で、点描をしっかりと「音」にできる技能を前提に、いかに感情や思いを表現するか、なのだ。 等身大の人間表現の中に、何を伝えるか、の世界なのだろう。 そんなことを考えているうちに、9時からは日曜討論が始まった。私も家に着いた。 ■関連する過去の記事  ○舘野泉さんの演奏会を楽しみに(06年1月29日)  ○羽田健太郎&高嶋ちさ子さん演奏会を聴く(06年4月23日)

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