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作者は楊逸という中国人、日本人以外で芥川賞を受賞したのは初めて。 1989年に北京で発生した第二次天安門事件に参加した大学生を主人公に 20年の歳月でどう変わったか、というか主人公は変わっていないが 主人公を取り巻く人々がどう変わったかを描いている。 先に天安門事件を”第二次”と書いたが 第一次は周恩来首相が亡くなった年の清明節に発生している。 第二次は胡耀邦総書記が亡くなりその追悼式をきっかけに発生したものである。 私が1986年に南京大学に留学していた当時、胡耀邦が総書記で 年末に学生運動があり、 南京大学にも飛び火し、学生たちがデモ行進や集会を開いていた。 私は何が起こっていたのかよく分かっていなかったし、 外国人なので”お呼びじゃない”と思い留学生宿舎にこもりっぱなしだった。 胡耀邦は翌年の初めに失脚し89年に亡くなり第二次天安門事件へと発展した。 この時は私は日本に帰国していたのでニュースでしか知らないが 遠因となる86年の学生運動には居合わせたことになる。 日本でもどこの国でもそうだが、経済発展へ向かう途上では このような熱病に似た学生運動はハシカみたいなもの、通過儀礼なのかもしれない。 年年歳歳花相似たり 歳々年々人同じからず という漢詩の1節を思い出した。 漢詩では物理的な”人”を意味し人生の無常観を表現したものだが この作品を読んで 同じ人でも歳月の経過とともに環境が変化し考え方や行動が変わっていくのだなあ、 と言う解釈しながらこの漢詩を思い浮かべてしまった。 中国の経済が発展し、豊かになるのは結構なことだと思うし、 社会が安定しそれぞれが自分の目標に向かってひたむきに努力できようになったのもいいことだと思う。 主人公は日本に亡命し民主化運動の組織の中心人物になるが 時折天安門事件の時に作ったTシャツを眺めながら 当時の思いを新たにしているのだが、 周りの人たちは中華料理店を開いたり 中国に残っていた友人もTシャツのデザインを振り出しに経営者になっていたり 民主化運動への参加者自体が減少したり、 まあ、そうなんだろうなあ。 司馬遼太郎が『峠』の中で河井継之助に「志とは塩のようなものである、そのままにしておいたのでは水分を吸って溶けてなくなる。」と言わせている。 時が滲む朝 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年08月21日 01時22分02秒
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