カテゴリ:日々のつぶやき(雑記)
先日見ていた韓国ドラマの中に、朝鮮、動乱のシーンが少しあった。 物語の舞台は、戦場ではなかったし、テーマも戦争のことではなかったし、 割と短いシーンだったのだが、 逃げ惑う人々、財産や職や、家族を失ってしまった人々、 徴用や出征で、避難した家族と離れ離れになった人々、 家族の消息を尋ねる手書きの張り紙が、そこここに貼られ、 プラカードを持って路地に立ち、必死で家族を探す人々・・。 当たり前なんだけど、大変だったのだなあ・・と改めて、改めて、感じた。 日本では、特需とかで、それを契機に、景気が持ち直した、という風に理解していたので・・・。 そこの場所での悲惨さが、私の中では、今ひとつ、イメージできてなかったことに気付き、 それが、ちょっと衝撃だった。 こういうことは、他のことでもあると思う。 人の立場を理解し、心を寄せる、ということは、簡単ではない。 自分に直接関わりの無さそうはことは、特に。 現場を知る立場にある人は、色々な方法で、現場の実態を伝えていくこと、 また、現場にいない人は、知ろうとすることが大事で、 そうでないと、悪気が無なくても、 知らない内に、人を不幸にしていくことに加担していまう危険性がある。 私は、基本的に、あまり、政治的ではないし、 いつも、自分自身のことで、アップアップしているだけで、 世の中のことには疎いのだけど・・。 リストラも、戦争も、やる側には、共通点 があるように思う。 リストラも、戦争も、実行をすすめる人たちは、自分は、安全な所にいる。 苦しむのは、他者なのだ。もし、本当に、自分の会社で働く人達を、 自分がそうなったら困るような目に合わせたくなければ、 第一線に送る兵士や、そこで被害にあう味方も、相手側も同じ人間であることを、 本当に自分の痛みとして、皆が感じていれば、今のような 社会のしくみには ならないのではないだろうか? 「誰かの犠牲が必要だ。」という状況が正当化されようとする時は、 だまされては、いけない。 本当にそうなのか?他に方法は無いのか?発想を転換すべきでは? 一人一人を大切にして、乗り切る方法を考えよう!と思うことが、 当たり前な社会にならないと、今の不幸の連鎖は断ち切れない気がする。 もうひとつ。またまた、テレビの話。 かつて、ナチスドイツで、上官の命令に従って、 残虐行為を行われたことに対する反省から、 「ドイツの軍隊の将校(将校だけ?)は、最終的には、上官の命令に逆らってでも、 自分の良心に従って良い。」 という教育を受けている、という報道を見て、 これまた、衝撃的であった。 軍隊というところは、上官に絶対服従 だと、思っていたので。 また、自分の職場でも、人道的に問題であることを強いられるような状況に もし、万一あったらどうしたら・・みたいなことは、うすぼんやり考えていたものだから・・。 こんな規則があるところが、あるんだ!本当に!?という感じである。 もし、本当なら、過去の非人道的な問題への反省としての一石になるような気がするが。 。 でも、一方で、戦争の現場で、それが通用するかどうかも疑問に思う。 「敵」がゲリラ戦で、一見非戦闘員と思える人の中に紛れているかもしれない、 そして、自分が殺されるかもしれない、実際に殺されている仲間がいる、という恐怖の中で、 敵かもしれない非戦闘員とも見える人々に対して、もし、そういう立場に置かれたら、 私は、人道的 立場を優先できるだろうか? また、(有りえないけど、)自分が上官で、部下が反対意見を言った時、 戦場で、それを受け入れる度量があるだろうか? 指揮官の統率が乱れることを懸念し、「問答無用」と答えてしまわないだろうか? ただ、「人道的な立場、自己の良心を上官の命令より優先させても良いのだ、 そういう選択肢もある」 ということが、皆の心にあるのと、全く無いのとでは違うとは思う。 とはいえ、 そもそも戦争そのものが、通常してはならない殺人という非人道行為の連続な訳だから、 そこで、非人道行為が行われないようにする、というのは、至難の業だ。 つまり、そういう状況、戦争状態に陥らないようにする、ことの方が肝要である。 いずれにせよ、大きな社会の渦に巻き込まれる前に、 国民一人一人が、変だ、おかしい、と、感じた時に、 こまめに、「それは、おかしいのでは?」と、 言って、意見を交換し、調整し、正していくことが 大切なのではないか、と感じる。 感じるのだが、私は、実行しないんだなあ。 こわがりだもんなあ。 この程度の文章を書くことですら、おずおずと書いている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014/09/23 01:21:27 AM
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