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カテゴリ:罪状認否
こんな記事があった。一体、どんな教授なのかな、と思うと同時に、自殺した学生さんは、もし、この教授に出会ってなくても、誰かにひどいことを言われたりされたりしたら、いつか、自殺したんじゃないかなぁ・・・・・・。
私は何度も書いたことがあるけど、小学生の頃、夏休みの終わりには、必ず、自殺志願者と成り果てていた。山積みの宿題を前に、なす術もなく、出来ることは自殺と言う現実逃避だけだった。でも、それほど追い詰められた時、母がちょっと(大いに!?)手助けをしてくれたり、優しい言葉を掛けてくれたり、友達が、「私だって同じよ。大丈夫!」などと、気休め?!を言ってくれたことで救われ、一命をとりとめ、今に至ったと思う。 彼にも、私にとっての母や友達のように、彼がひどく傷ついたり、へこたれて居る時、何気なく支えてくれる人があれば、こうはならなかったと思う。決して、彼の周りの人を責めるのではなく、逆、彼に、周りからの優しさを受け入れる余裕がなかったのかもしれない。 人は、それぞれの荷物を背中に負って一日一日歩いている。躓き、倒れそうになり、投げ出してしまいたくなりながら、それでも、前を向いて次の一歩を踏み出す。つぎのかどを回れば、違う景色が開けるかもしれない。一つ山を超えれば、桃源郷が迎えてくれるかもしれない。そんな淡い思いを抱きながら、或いは、一歩、一歩踏みしめることを最終的な目標としながら、背中に負った荷物をゴールへと運び続ける。 重い荷もあれば、軽い荷もあろう。重い荷を負った人が、軽い荷を負った人へ羨望を抱いても、それは無意味で、重い荷を負った人は重い荷を負い続けなくてはならないし、重い荷をいかに軽く運ぶかを、考えることだけが、彼をゴールへ導く手段なのだ。 きつい言葉を浴びなくてはならない場面は、人生において幾らでもあるだろう。人はその場面での免疫を体内に作らなくてはならない。それはどうやれば作れるのか、誰も知らない。一人ひとり全て違うから、誰からも教わることは出来ない。自分で考えるだけ。誰もヒントを与えてくれないなんて嘆くのは、極めて愚かな事だ。 社会はおかしな方向へ向かっているようにも見える。法律で守られなくてはならないものが、歪んでしまわないように祈っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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