横浜にできた軍陣病院
慶応4(1868)年の戊辰戦争のとき、傷病兵の手当てが必要になり、横浜野毛の修文館に軍陣病院できた。新政府は江戸に病院を開こうとしたが、責任者として迎え入れた英国人医師ウィリアム・ウイルスが横浜を離れられないこともあって、野毛山の修文館に軍隊用の病院を開いた。ウィリアム・ウイリスは、文久2(1862)年に来日して、その年の9月におきた生麦事件で死体を検死した医師である。この医師ウィリアム・ウイリスに西郷隆盛の弟、西郷従道が助けられる。このとき、軍陣病院に日本人医師として従軍していた佐藤進は、外国人との力量の違いに劣等感を覚え後日ドイツに留学することとなる。佐藤進は、わが国の西洋近代外科の基礎を築いた順天堂医院第二代院長であります。修文館は、慶応2(1866)年旧幕府の下に設立された漢文学校で、幕府の役人が江戸より横浜へきたときに旅館としても使用された官営学校だ。それはさておき、軍陣病院の傷病兵の数は次第に増加し収容限度を超えたため、修文館、元勘定役所、太田陣屋の3カ所で治療に当たる事となる。その後、横浜軍陣病院は、神田に移転して東京大学医学部付属病院の礎となる。横浜軍陣病院の活動は、短期間で終わる。しかし、日本の医学に与えたインパクトは、大きい。