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カテゴリ:横浜・雑記帳
今回は、横浜、関内にある弁天通りのお話であります。
名前の由来となった洲干弁天社(しゅうかんべんてんしゃ)は、横浜開港前からの景勝地であり、開港後は開港場の中心をなす横浜町の入口に位置することから、横浜名所の一つとなり、茶屋などがあった。 今でも桜木町から馬車道側に弁天橋、関内には弁天通りと名前が残っている。 砂州の村、半農半漁の「横浜村」は、洲干弁天社の景勝地であった。 一の鳥居~四の鳥居、瓢箪池(ひょうたんいけ)と架かる橋、鎮守の森、茶店には、「うなきめし 蒲焼 とせう」の看板があり、江戸時代からの観光地だ。 弁天社入り口の橋と鳥居、瓢箪池に架かる橋。 鳥居の奥に社殿がある。 開港場が整備され弁天社のところに官舎を建てるために、明治2年、洲干弁天を元町厳島神社に遷座。 また、同じく明治2年に羽衣町厳島神社(横浜弁天)に遷座と二カ所に分かれる。 羽衣町は、一つ目沼を埋立てて厳島神社が移ってくる事にちなみ天女に関係のある「羽衣」から「羽衣町」となった。 謡曲「羽衣」も町名の元となった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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