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カテゴリ:仏教、神話、哲学
般若心経で疑問に思うこと。
何故玄奘三蔵はサンスクリット原典にはない「度一切苦厄」を加えたのか。 心経を読んでいると、「五蘊ありしかも空なり」「色受想行識も空なり」「八不中道をゆくべし」「十二因縁も空なり」とまあここまでは理解できる。 しかし次の「無苦集滅道」はどうなのだろうか。 苦が無いなら、その後の集滅道が無いのも理解できる。しかし苦が無いというのは成り立つのだろうか? 仏教で謂う「苦」とは日本語や漢字で云う「苦しい」とは別のものである。 仏教での「苦」は「自分のおもうようにならなくて苦しい」というニュアンスなのである。 四苦八苦もそうだ、生老病死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦、全て自分のおもうようにならなくて苦しいの意味なのである。 自分の思うままにならなくて苦しいとは「空」と意味はほぼ似通っている。 ただ空に親しむ菩提薩埵(菩薩)は、「思うままにならないけど受け入れる」の感覚なのかもしれない。だからこその「観ること自在」の菩薩なのだろう。 「観自在」とは主観と客観を超えたという意味も含む。結局「無我」に通じるものだと思う。 さて「苦」は無なのだろうか? 「思うままにならない」が「思うままになる」のではない。「思うままにならない苦しみ」が無くなるという意味なのだろう。 玄奘三蔵はこの「苦」の意味を察して「度一切苦厄」の一句を加えたのかもしれない。 仏教 ブログランキングへ にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年05月23日 16時09分13秒
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