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カテゴリ:仏教、神話、哲学
それでユングのような集合的無意識を仏教では認めるかどうかなんですよ。
仏教で深層心理学にあたるのが唯識派だ。 唯識の入門書をいくつか読んだ事があるのはだいぶ昔のことなので、正確には思い出せないですが唯識には二派あるんです。 無相唯識派と有相唯識派だ。 まず伝説上、唯識を説いたのはマイトレーヤ(弥勒)だと謂われる。 これが実在の人物なのか、大乗仏教の弥勒菩薩のことなのかは不明だ。弘法大師は弥勒菩薩のこととして説いています。実在の人物であったにしても弥勒菩薩への信仰あっての名前でしょうから、弥勒菩薩所説の唯識論で問題ないと思う。 彼は二人の僧侶に唯識説を説いた。無着(アサンガ)と世親(ヴァスヴァンドュ)の兄弟だ。 弟の世親の方が有名だが、二人の唯識説の違いは 無着が無相唯識派 世親が有相唯識派 です。 無着の無相唯識は空思想の影響が強く、心器官の存在を実在とは認めていない。仮の存在という扱いだろうか。 世親の有相唯識は、心器官を実在のものとして論を展開した。そうしないと「唯識説」そのものが曖昧な存在として受け止められてしまうからだ。 心器官が実在ということは、アーラヤ識が実在のものであり、輪廻転生の主体ということになる。 仏教思想で曖昧なのが、「仏教では輪廻転生を認めるのか否か」です。 アーラヤ識が存在が実在ならば、仏教は輪廻転生を認めるということになる。とはいえ、転生するのは罪がある為であり、心塵を浄化すれば、業(カルマ)から逃れて仏になるということになる。この時、有相唯識派ではアーラヤ識の消滅を説くのかどうか、私の勉強不足の為不明です。しかし、無着の無相唯識派ならば、仏になった瞬間アーラヤ識が消滅することは確実だと思われます。 無着の有相唯識は、その後玄奘三蔵が唐に持ち帰って成唯識論を唐に紹介した。玄奘三蔵は法相宗を立ち上げ、これは日本にも伝わっています。 さて、結論と致しましては集合的無意識は仏教的には非実在であると私は考えております。 しかし「心」というものは不思議で奥深いものです。 玄奘三蔵という天才が、有相唯識を選び取ったということは、心器官の実在を信じるに足りることだと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年04月11日 01時55分01秒
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