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2020年06月21日
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カテゴリ:仏教、神話、哲学
私が気になるのは三密とは何か?ということです。
三業と三密の違いは何処にあるのか?

以前書いた記事では顕教の瞑想では「動かない」「唱えない」「想わない」になっているというような事を述べました。
密教の瞑想は「印を組む」「真言を唱える」「観想する」の瞑想です。
そしてより深い瞑想に入るには顕教の瞑想の方が優れているのではないかと。

では密教の瞑想とは何なのか?
顕教の瞑想は煩悩の除去である可能性が高いのです。則ち「止」です。
逆に密教の方では智慧を働かせる「観」ではないのか?

顕教の方は大円鏡智の「空」にたどり着いて現実世界に帰ってくるものです。「十牛図」の様な。これは四智の階梯の上り下りですね。
ならば密教の方は自己を観る類のものではないのか?
自己を観ることで、この世界が仮想空間であることが実感できる。真実は自己のみであったという自覚です。

だから密教瞑想は自分で唱え、自分で聴く。印を組んで自分で実感する。観想(イメージ)して体感する。という風に解釈すべきなのだろうか?基本自己完結してる行為の瞑想。つまり外に対しては働き掛けない。例えば三業を用いて他人に見せるようなものではなく、自分で体感するという瞑想なのではないか?

じゃあ何故そのような瞑想法で自己を観る(如実知自心)ことが可能になるのか?
それは今の私には分かりません。
その可能性があるということです。
顕教では「空」だから自心を観ることが無いのです。拒否する。排除してしまう。
でも密教では自心を観ることを肯定している。

真我が仏だとすると、その対象は曼荼羅となる。
だから自性も排除するものではなく聖空間として生まれ変わる。

ということは密教は梵我一如ではないかもしれないな。
「梵」が曼荼羅で、「我」が仏です。
曼荼羅を観るということが仏であるということに繋がる。
曼荼羅という聖空間を観る修行法が三密なのかもしれない。

梵我分離が仏教及びインド哲学の究極とする処なのかもしれない。
そこから寂滅が有るかどうかは、また別のテーマとなってくる。





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最終更新日  2020年06月21日 20時03分54秒
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