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カテゴリ:仏教、神話、哲学
仮説1
弘法大師は「空」を究極とは捉えていなかったのではないか? 弁顕密二教論を読むと「空」を説く教えはことごとく「究極の悟りではない」という扱いになっている。 弘法大師にとって「空」とは真理にもやがかかってはっきりと見えない状態だと考えたのではないでしょうか?「如実知自心」でなければならなかった。 顕教は究極の真理は言葉にできないと考える。故に果分不可説と謂う。法身は語らない。 密教は究極の真理を言葉にできると説く。故に果分可説と謂う。ならばこそ法身は説法するのである。 その説法とは三密である。 三密は平等でありますので、〈身体(物理)=言語=精神〉ということになります。唯識の応用系ですね。唯識ではなく唯三密です。この世界そのものが法身の身体であり言語であり精神であるという考えです。だから今この一瞬を肯定するのです。 密教には阿字観というものがありますよね。阿字にはいろいろな意味がありますが、まずは「阿字本不生」という言葉を覚えておいて下さい。 不生とは何か?龍樹や般若経にある「不生不滅」のことだろうと考えますよね?だからてっきり「空」を指しているのだと思ってしまいます。でも違うのだと思います。「常楽我浄」を指しているのではないかというのが私の仮説です。だから月輪に阿字を置くのです。 密教では「この一瞬」を虚しいものだと考えない。 そこにみほとけが居ると考えるのでhないでしょうか? 同じく「金剛」とは何か?というのも同じように考えられないでしょうか? 空そのものを否定はしませんが、究極ではないと考えるのです。 空性自体は虚しからざるもの。故に金剛と理解することができます。 空性とは大円鏡智のことですね。 鏡の上を様々な映像が流れてゆく。しかし鏡そのものは不動のままなのです。 そういえば「アシュク」って「不動」という意味らしいですね。詳しくはしりませんが。 それでまあ、空性=金剛だと理解しています。私は。 「不空金剛」という言葉も(人名も)言いえて妙だと思います。(虚しからざる金剛)って意味ですから。いま「此処」に究極のものがある。それを密教瞑想によって体感せねばならない。いま「此処」には虚しき映像も移り行くでしょうが、不空なる金剛も確かに此処にあるのです。故に妄想であっても妄想ではない。 今「此処」を何と名付ければ良いでしょうか。金剛でも良いでしょうし、本不生でも良いでしょう。そして常楽我浄と呼んでもそれもまた良いのだと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年08月04日 22時42分07秒
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