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カテゴリ:仏教、神話、哲学
仏教は因果律。キリスト教は予定説という違いがある。 因果律は原因があって結果があるという考え方。 予定説は、未来は決定しているという考え方。
日本人の感覚からすると、因果律の方が受け入れ易いだろう。 何故なら、予定説では悪いことをしたとしても「救われる者」は必ず救われるからだ。そしてどんなに良いことをしても「救われない者」は救われない、それがキリスト教。 「善いこと」「悪いこと」という人間の尺度で神の裁量を左右すると考えるなら傲慢そのものということなのだ。神が「あの民族を皆殺しにしろ」と命じたならそれは正義なのである。それが宗教というもの。だから宗教とは恐いものなのだ。
日本人は仏教の影響を受けて、「神」の前に「法」が存在すると考える。神でさえ法には逆らえないと仏教では考える。だから善因善果、悪因悪果と考える。「努力したから成功した」とかね。「善い行いはやがて報われる時が来る」とか。
しかし現実はどとらが正しいのかと考えると、五分五分ですかね。悪いことをして成功することもあるし、良いことをしても報われないことがある。そして当然その逆もあるわけです。けれども一般に宗教は「来世に報いを受ける」とか「魂は天国に行った、地獄に落ちた」などと語る訳です。
仏教では、業を語り、それが善果となるか悪果となるかは実際分からない。だから仏教の深いところでは「業」そのものから離れよと説く。業を受ける生まれ変わりは否定的に捉えるのだ。
ですから仏教では原因の段階で未来は決定されていない。未来はどうなるか分からない。戒律で経験値を積んでも成仏の決め手にはならない。だから通常は時間軸での成仏には果てしなく時間が掛かる。
そして現代物理学、量子論は予定説も否定している。未来は決定されていない。「神はサイコロを振る」が正解だったことが分かった。返す刀で因果律も否定する。原因が必ずしも結果を決定するとは限らない。
未来のことは確率で語られる。 となると因果律はどこに存在し、何処に観るのか? それは現在から過去を振り返ったときに存在する道筋だった。
「現在の俺があるのはあの時あの人に出会ったお蔭だ」という因果の糸が観えてくる。その出会いが偶然であろうと、神の差配であろうと、運命であろうと、予言通りであろうと、そこには明確に因果律を観ることができる。
そして、現在から過去を観て因果律を観ることによって、「反省」することができる。ここで「戒律」が生じる。仏教では因果律の考えに従って戒律を定め、成仏への成功確率を少しでも上げようとする。それでも成仏は絶対ではない。
釈尊という素晴らしいコーチの下で指導を受け戒律を守っていたとしても、在家の維摩居士にまったく敵わないということも出てくる。戒律というものは十分条件であり、必要条件ではない。
そしてキリスト教徒も神の国に入れるかどうかは知ることができない。いくら熱心にキリスト教を信じていても最後の審判で消滅させられてしまう可能性は十分存在する。「信仰したから救われる」という因果律な考え方ではない。
救われる人間は神があらかじめ決定している。しかし「現在キリスト教を信仰させて頂いている私は神の国に入れる可能性はそれなりにあるのではないか」と考え同時に、不安でたまらなくなる。そして更なる信仰の道に進んでゆくのである。
一方日本では(自力で)修行して成仏する仏教を聖道門と呼び、他力で往生を願う仏教を浄土門と呼んだ。私の解釈では「必要な修行はブースターとしての阿弥陀仏が代わりにしてくれました。あとは南無阿弥陀仏というパスワードを唱えたら簡単に極楽浄土にログインできますよ」という感じです。「今ここ」で救われることが大事なんですね。
この因果律をすっ飛ばす考え方。仏教としてはどうなのか。私は正しいと思います。因果律の考えは補助装置なのです。「中論」を読んでもそうでしょう。三時門破されていますもの。因果律は仏教の本質ではないのだと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年12月20日 19時14分19秒
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