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カテゴリ:仏教、神話、哲学
ペルソナは個である。そして理性を持つ。
理性を持つということは言葉を扱う。 神であれば一瞬で物事を理解する理性を持つが、人間の場合理解に時間を要する。未熟な赤子から始まって言葉を与え続けることで理性が育まれる。 人間は言葉を通じて理性を獲得してゆくのだ。 先ほども言ったように、ペルソナは個である。個であるということは非共有の存在だ。 逆に言葉は共有できるもの。普遍的な存在だ。 個であるペルソナが理性を持ち、言葉を扱うということになる。 そして個は主観であり言葉は客観にあたる。 学問でも主観は仮説で、客観は証明となる。 よって実証することが客観的で万人に理解されるもっともな方法となる。 証明ができる学問であればそれで良いだろう。 しかし証明できない学問では意味を為さない。 人文系、特に心を扱う分野については。 そこで人々は客観で主観を説明しようと苦心惨憺する。 しかしそれでは主観自体を説明することはできない。「主観は何で構成されているか?」無意味である。主観は客観ではないのだから。だから「~ではない」としか説明できない。 客観は自己に関して決定的に無知なのだ。これが無明。 心を「色受想行識」で説明しても、肝心の主観は語れない。「色受想行識」は自己からアウトプットされたもの。近似値を示すだけである。 客観は肝心な部分が説明されない。だから「空」なのだ。 ですから「無我」だとか「空」だとか言っても、それは現状認識であって、結論には達し得ていないのです。「無我」や「空」は仏教にとって通過点でしかないことが分かってもらえるだろうか。 実証主義とは世に現しだされること。客観的世界に実際に現れて証明されること。 世界は客観なのです。仏教用語であれば五大。 しかし世界は世界のみで存在し得ましたか? これは人間原理になってしまいますが、主観がなければ、誰にも発見されなければ、世界は存在していないのです。 五大は五大のみで存在しているのではない。 だからそこに「識大」を加える必要があった。観察者が必要なのです。 「五大は、世界は「空」です。」その結論で満足できるならそれで良いかもしれませんが、それは結論でも悟りでもない。ともかくも識(主観)を持ってこないことには先には進めないのです。 そして言葉も客観。数学も客観。実証も客観。 しかしそれは完全な客観ではなかった。主観のコード無しには、言葉も数学も世界も実証も意味を為さない。不完全性定理の通りである。 だから主観ありきから、客観を観なければなりません。 言葉にも主観が必要なのです。主観がなければ言葉は動き出しません。 世界も仏の視点がなければ密厳浄土にならないのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年04月04日 14時25分22秒
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