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カテゴリ:仏教、神話、哲学
衆生を救うことに主体があるのか、真理を説くことに主体があるのか。 例えばアマゾンは沢山の商品を販売している。それはお客様のニーズに合わせてだ。しかしその中でアマゾンが売りたい真の商品が実は存在しているのかどうか。 作り手が作りたい商品だけを売っていたら、いつかは売れなくなって会社は衰退する。 日本の「物作り」はこれで失敗した。 しかし職人精神は生まれてくる。目利きにはその商品の価値が分かるとかだ。 欧米はマーケティングを重視している。 マーケティングが中心にあって、商品を作る。それでGAFAのような世界的大企業が誕生した。「物作り」の「職人精神」ではこうはいかないだろう。 日本は逆だったのだ。 「作ったものをどうにか売ってこい。その為のマーケティングだろ」となる。 作れば売れるバブルの幻想を追うとそうなる。そして失敗する。 それで仏教の話になるのですが、密教は職人精神的だなあと。 如来秘密によって段階的に真理に迫ってゆく。 逆に浄土教は衆生救済が主題だったのだろう。南無阿弥陀仏であっという間に救われてしまう。 それで多くの信者を獲得した。 密教は貴族階級。浄土教は農民階級を主として発展した。 浄土教は究極の大乗かもしれない。 そして日本の浄土教は密教の影響があってこそ生まれた。けれども浄土教は脱密教として教義を展開している。そこから分かるのは「顕教だからダメ」という訳ではないこと。 密教は「仏の世界の曼荼羅」を掲げているから、衆生を救い切れない可能性がある。 浄土教が顕教である理由は衆生が生きているのが顕の世界だからだ。そこに根をはって教義を展開しているのである。 でもそこで密教がダメとは言わない。 密教は真理を秘密のままにしておく教えではないのだから。 むしろ秘密の部分を開陳して見せてくれる大顕教なのである。 大日如来は沈黙の仏ではない。三密の説法そのものである。それが私が古義派である理由。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年08月26日 23時41分35秒
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