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カテゴリ:仏教、神話、哲学
自己(プルシャ)は世界外存在であり、認識対象ではない。それ故認識されることはない。それは秘密の領域に存在する者であり、顕の分別から超絶している。 そもそも分別は世界内にいるから存在する。 世界外からなら分別を用いず認識が可能なのである。 その論拠は「不完全性定理」にある。 不完全性定理とは、自分の正しさを自分では証明できないというものである。 例:刀Aで、刀A自体を切ることができない様に。 例:認識する者は認識対象の内に、自己を見出すことができない。 例:帰納法の正しさを帰納法で証明することができない様に。 例:嘘つきが「私は嘘つきである」と言う様に。 例:「この文は偽である」と云う様に。 例:「すべての人は嘘つきである」と云う様に。 「自己言及のパラドックス」が発生する。 それらが例え正しかったとしても、それを証明することは(自身では)不可能である。 論理学に於ける不完全性定理は、物理学に於ける「不確実性原理」として現れる。観測者が観測対象に影響を与えてしまうから。それ自体を観測できることはできない。 世界外からの観測であれば、完全な客観が成立すると仮定することができる。しかしそれ自体についての観測結果は一つではない。自性(プラクリティ)は曖昧模糊な存在なのである。 自性(プラクリティ)の全体相を観ることを自性自体が夢想する。そして生み出されたのが究極の客観。自己(プルシャ)という概念なのかもしれない。 しかしそんな自己(プルシャ)は存在しえないとも云える。 観測結果はことごとく真実を歪める。観測は真実に影響を与えてしまうから。 自性(プラクリティ)の全体相を「法界」と名付けてみよう。 そして法界の全体相を知る智慧を「法界体性智」とする。 それらは分別された四智を合わせたものと説明される。 しかし「法界体性智」とは何なのだろうか。正体不明である。不確定な存在である。究極の客観は「秘密」な存在だ。それ自体を規定する〈言葉〉にすると、分別の「顕」に堕してしまうだろう。それ故、自己と自性の二元論は存在しえない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年05月03日 01時19分40秒
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