BT五月号発売中
さて、BT/美術手帖誌の5月号が発売中。特集は「日本画ってなんだろう?」。で、僕は、ライターとして、昨年7月号から「ギャラリーレビュー」欄の東京方面を担当していて、今号にも800字の原稿を三本寄せている。いぜんこんな青い文章をここに載せたこともあったけど、一年近くレビューを書いてきて、ここにきてようやく、自分でも納得のいく文章が書けている気がする。800字という限界があるので、書けることもほんとに限られているんだけど、それを鑑みたうえでね。なので、もし手にとることがあったらぜひ読んでみてください。誹謗中傷以外であれば、どんな反応もウエルカムっす。さて、なぜ僕が手応えを感じているのか。いままでは、主に作品の「内容」についてしか書けなかった。たとえば一枚の絵があるとして、「絵画」という「形式」に触れることなく(もしくはアンスリリングなやりかたで内容と絡ませて)、そこに描かれたモチーフについて語るなら、世間に氾濫するあらゆる言説を緩用することができる。もしホリエモンの顔が描かれていたら、ホリエモン現象(?)について語るとか。こういうやりかたは、実はすごく安易で、楽。でもずっとそういう書き方には「逃げてる」感があった。なので、書きながら、どうやって「逃げずに書く」か、試行錯誤していた(と思う、たぶん)。んで、3月号で辰野登恵子@Shugoartsについて書いたあたりから、「形式」について書けるようになってきた。もちろん辰野さん自身が、「絵画」という「形式」に意識的だからでもある。今月号でとりあげた田中功起氏、村元崇洋氏、西原功織氏は、それぞれ、「映像」「彫刻」「絵画」という「形式」に意識的だし。その意味で、作家や作品との出会いが、僕のタイピング・フィンガーズを前に進めてくれたとも言える(いぜん書かせてもらった作家さんたちも、 同じように意識的な人も多かったんだろうけど、 僕の目がついていけてなかった。 ただ、今後も((といってもあと二回だけど))、 どうしても「内容」についてしか触れられない こともあると思う。 できるだけそういうのは書きたくないけど)。僕自身の作品においても、いままでは「内容」にばかり気を注いでいたように思う。少しずつでも、「形式」に意識的になり、それに言及する作品を作っていきたい。その境地はまだまだ遠いけど。その前に美術作家としてだめになる可能性もけっこうあったりするが(最近けっこうアイデンティティ・クライシスでして)。「形式」に意識的になるとはつまり、「形式」を疑うこと、それが依拠するシステムやメカニズムに批評的になることで、ようするに「おれの魂を具現化したぜ」的な、いわゆる「表現」の真逆にある。そこでは既存の「形式」の安易な踏襲のうえでの、「内容」しか問題にされないから。なんだか頭がこんがらがってきたが、ようするに、自らの「形式」に批評的にふるまわない作品はつまんない。作品の「形式」を無視する作品論もつまんない。最近は、たとえば、「絵画」であることにあぐらをかいた「絵画」が多過ぎる。そういうのがもてはやされ過ぎ。いや、いまはそういう時代だってのはわかってるんだけど...。ふむ。さて、この日記には何回「 」が登場したでしょう?