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2023.10.07
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テーマ:古本屋!(894)








犬養毅書簡幅 平野御令室(平野成継夫人カ)

【状態】少痛み、シミ、ヤケ、97×57cm

 

【翻刻】

(表題)

「犬養健 手紙」

 

敬啓、真綿御恵贈被為下、御厚意

難有奉存候、御主人御健康、兎角

御休不被為との趣、甚愚念致候、折角

御秀発可被成候、荊妻よりも宜敷御礼申上候、

小生、今夕大阪・京都ニ参り、数日中にハ帰京

可致候、年中忙しく候為め、意外ニ

御無沙汰致候、小生、閑暇ニ相成候て、御尋可致、

若し御上京被成候て、御立寄可被下候、目下の住居ハ

甚不便の処ニ候、明年五、六月ニハ、新築ニ引移

の筈ニ御座候、不取敢御答致迄にて候、不一、

  十一月十六日  犬養毅

 平野御令室様

 

上海九華堂厚記製

 

【読み下し】

敬啓、真綿御恵贈なしくだされ、御厚意ありがたく存じ奉り候、御主人御健康、とかくお休みなされざるとの趣、はなはだ愚念致し候、せっかく御秀発なさるべく候、荊妻よりもよろしく御礼申し上ぐべく候、小生、今夕大阪・京都に至り、数日中には帰京致すべく候、年中忙しく候ため、意外に御無沙汰致し候、小生、閑暇に相成り候て、お尋ね致すべし、もし御上京なされ候て、お立ち寄りくださるべく候、目下の住居は、はなはだ不便のところに候、明年五、六月には、新築に引き移りのはずに御座候、とりあえずお答え致すまでにて候、不一、

 

【現代語訳】

お手紙を申し上げます。真綿を贈ってくださって、ご厚意ありがたく存じます。御主人(平野成継か?)のご健康については、何かにつけてお休みを取っていないのではないかと、愚考いたします。十分にお気をつけて、お元気になってください。私の妻からも、よろしくごあいさつ申し上げます。私は、今日の夕方に大阪・京都に行き、数日中には東京に帰ります。一年中忙しいため、思いのほかご無沙汰しております。私は時間ができましたら、あなたをお訪ねいたします。もしあなたがご上京されたならば、私の自宅にお立ち寄りください。現在の住居は、とても不便なところにあります。来年の五月か六月には、新築に引っ越すはずでございます。とりあえずお手紙のご返事を申し上げました。以上。

 

【解説】

1】犬養毅か犬養健か?

軸には「犬養健 手紙」という表題が書かれているが、書簡の署名は「犬養毅」と書かれている。

署名は字が崩されているが、他の犬養毅の書簡にある署名とくらべてみても、「毅」と読むのが妥当と思われる。

ちなみに犬養健(18961960)は作家にして政治家で、毅の息子にあたる人物である。

この軸はどうしたことか、息子・健の書簡として、誤って伝えられたようだ。

 

2】犬養毅の略歴

犬養毅(18551932)は、明治から昭和にかけての政治家で、立憲国民党の総裁、革新倶楽部の代表をつとめ、昭和6(1931)12月、内閣総理大臣となる。

そして昭和7(1932)515日、首相官邸において海軍青年将校に暗殺された「五・一五事件」は、あまりにも有名である。

 

3】宛名の平野御令室様とは誰か?

この書簡の宛名である「平野御令室様」とは、いったい誰のことであろうか。

推測もまじえて、考えてみたい。

犬養毅は「木堂(ぼくどう)」という雅号をもっており、大正13(1924)1月から『木堂雑誌』という月刊誌を主催していた。

政治に関する論稿などを掲載する雑誌であったが、彼が昭和7(1932)に暗殺されてからも発行され続け、犬養を偲ぶ文章などが掲載されている。

昭和15(1940)6月号まで、発行が確認できる。

その『木堂雑誌』に、犬養と交流のあった平野成継という人物が登場する。

『方寸 第4号』によると、彼は山形県鶴岡市に住んでいた報知新聞の記者で、『庄内歴史年表』などを著した史家でもあった。

また、『木堂雑誌 16(11)』によれば、彼は犬養が総裁・代表をつとめた立憲国民党や革新倶楽部の、山形県支部事務長であったという。

『木堂雑誌 16(11)』には、犬養から平野成継に宛てた書簡が収録されており、それによると、大正11(1922)1122日、山形県で犬養の書の展覧会が開催されたことが記されている。

ちなみにその書簡で犬養は、「醜穢拙陋、背ニ汗するを覚候」と、自分の書が下手だからという理由で、恥ずかしがっている。

犬養は能書家として知られているが、ここでは謙遜しているのである。

平野成継の役職や、彼と犬養との交流を示す書簡が存在することから、宛名の「平野御令室様」とは、平野成継の夫人を指している可能性が高いものと思われる。

書簡のなかで犬養は、平野成継の健康を気づかっているが、どうもそのころ平野は激務によって、体調を崩していたらしい。

 

4】年次比定

書簡であるため、この資料には年号が記されていない。

この書簡は1116日付であるが、はたしていつ書かれたものであろうか。

結論からいって、これは大正13(1924)1116日に書かれたものと考えられる。

書簡の中にある「今日の夕方に大阪・京都に行き、数日中には東京に帰る」という文言が手がかりとなる。

残された資料から、犬養が1116日から数日間、大阪・京都へ出かけていたことが明らかなのは、大正13(1924)だけである。

『木堂雑誌 2(1月號)』によると、この年1118日、革新倶楽部関西大会が大阪の中央公会堂で開かれた。

革新倶楽部の代表である犬養は、そこで集まった支持者たちに演説をおこなっている。

この書簡が書かれた大正13(1924)、犬養は加藤高明内閣の逓信大臣をつとめていた。

翌年(1925)5月に普通選挙法が成立すると、つねづね普通選挙の導入を主張していた犬養は、それを見届けたかのように、引退を表明して議員を辞職する。

しかし実際には、地元岡山の支持者の強い懇願があり、政治家に返り咲く。

昭和6(1931)1213日、内閣総理大臣となるが、翌年(1932)515日、首相官邸で海軍青年将校に襲われ、死去する(五・一五事件)

 

5】書簡の用紙と犬養の文人趣味

余談になるが、この書簡は、「上海九華堂厚記製」という用紙に書かれている。

上海にある文房具店が売り出していた用紙と思われる。

犬養には、中国の古紙・墨・硯などの文房具をコレクションする趣味があったが、この用紙も、彼の文人趣味から入手、使用されたものと考えられる。

ちなみに『木堂雑誌 13(5)』によると、犬養の五周忌(1936)の追悼会で、「専念箴」と呼ばれる犬養の格言が書かれた用紙が、来会者たちに配られた。

同雑誌に掲載されている写真をみると、「専念箴」は、「上海九華堂厚記製」という用紙に書かれている。

この書簡といい、「専念箴」といい、使用している用紙から、犬養の文人趣味がうかがえるのである。

以下、「専念箴」を引用しておく。

 

凡て人ハ立志が第一也、已ニ志を

立てたる上ハ、専念一意に邁進

して、日夜勉めて怠らざれハ、必す其

事業を成就するもの也、成業の訣ハ、

専念の二字と知るべし、

  犬養毅(木堂印)

      上海九華堂厚記製

 

【参考文献】

『木堂雑誌』192440

『木堂雑誌 2(1月號)』木堂雑誌発行所、19251

『木堂雑誌 13(4)』木堂雑誌発行所、19365

『木堂雑誌 13(5)』木堂雑誌発行所、19366

『木堂雑誌 16(11)』木堂雑誌発行所、193912

『方寸 第4号』酒田古文書同好会、1972

小林惟司『ミネルヴァ日本評伝選 犬養毅――党派に殉ぜず、国家に殉ず――』ミネルヴァ書房、2009

横山健堂「犬養木堂の文房趣味と私の阿片管()(『木堂雑誌 13(4)』木堂雑誌発行所、19365)

横山健堂「犬養木堂の文房趣味と私の阿片管()(『木堂雑誌 13(5)』木堂雑誌発行所、19366)


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最終更新日  2023.10.11 07:27:51
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