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テーマ:古本屋!(894)
カテゴリ:古文書・手紙・書簡
犬養毅書簡幅 平野御令室(平野成継夫人カ)宛 【状態】少痛み、シミ、ヤケ、97×57cm
【翻刻】 (表題) 「犬養健 手紙」
敬啓、真綿御恵贈被為下、御厚意 難有奉存候、御主人御健康、兎角 御休不被為との趣、甚愚念致候、折角 御秀発可被成候、荊妻よりも宜敷御礼申上候、 小生、今夕大阪・京都ニ参り、数日中にハ帰京 可致候、年中忙しく候為め、意外ニ 御無沙汰致候、小生、閑暇ニ相成候て、御尋可致、 若し御上京被成候て、御立寄可被下候、目下の住居ハ 甚不便の処ニ候、明年五、六月ニハ、新築ニ引移 の筈ニ御座候、不取敢御答致迄にて候、不一、 十一月十六日 犬養毅 平野御令室様
上海九華堂厚記製
【読み下し】 敬啓、真綿御恵贈なしくだされ、御厚意ありがたく存じ奉り候、御主人御健康、とかくお休みなされざるとの趣、はなはだ愚念致し候、せっかく御秀発なさるべく候、荊妻よりもよろしく御礼申し上ぐべく候、小生、今夕大阪・京都に至り、数日中には帰京致すべく候、年中忙しく候ため、意外に御無沙汰致し候、小生、閑暇に相成り候て、お尋ね致すべし、もし御上京なされ候て、お立ち寄りくださるべく候、目下の住居は、はなはだ不便のところに候、明年五、六月には、新築に引き移りのはずに御座候、とりあえずお答え致すまでにて候、不一、
【現代語訳】 お手紙を申し上げます。真綿を贈ってくださって、ご厚意ありがたく存じます。御主人(平野成継か?)のご健康については、何かにつけてお休みを取っていないのではないかと、愚考いたします。十分にお気をつけて、お元気になってください。私の妻からも、よろしくごあいさつ申し上げます。私は、今日の夕方に大阪・京都に行き、数日中には東京に帰ります。一年中忙しいため、思いのほかご無沙汰しております。私は時間ができましたら、あなたをお訪ねいたします。もしあなたがご上京されたならば、私の自宅にお立ち寄りください。現在の住居は、とても不便なところにあります。来年の五月か六月には、新築に引っ越すはずでございます。とりあえずお手紙のご返事を申し上げました。以上。
【解説】 【1】犬養毅か犬養健か? 軸には「犬養健 手紙」という表題が書かれているが、書簡の署名は「犬養毅」と書かれている。 署名は字が崩されているが、他の犬養毅の書簡にある署名とくらべてみても、「毅」と読むのが妥当と思われる。 ちなみに犬養健(1896~1960)は作家にして政治家で、毅の息子にあたる人物である。 この軸はどうしたことか、息子・健の書簡として、誤って伝えられたようだ。
【2】犬養毅の略歴 犬養毅(1855~1932)は、明治から昭和にかけての政治家で、立憲国民党の総裁、革新倶楽部の代表をつとめ、昭和6年(1931)12月、内閣総理大臣となる。 そして昭和7年(1932)5月15日、首相官邸において海軍青年将校に暗殺された「五・一五事件」は、あまりにも有名である。
【3】宛名の平野御令室様とは誰か? この書簡の宛名である「平野御令室様」とは、いったい誰のことであろうか。 推測もまじえて、考えてみたい。 犬養毅は「木堂(ぼくどう)」という雅号をもっており、大正13年(1924)1月から『木堂雑誌』という月刊誌を主催していた。 政治に関する論稿などを掲載する雑誌であったが、彼が昭和7年(1932)に暗殺されてからも発行され続け、犬養を偲ぶ文章などが掲載されている。 昭和15年(1940)6月号まで、発行が確認できる。 その『木堂雑誌』に、犬養と交流のあった平野成継という人物が登場する。 『方寸 第4号』によると、彼は山形県鶴岡市に住んでいた報知新聞の記者で、『庄内歴史年表』などを著した史家でもあった。 また、『木堂雑誌 16(11)』によれば、彼は犬養が総裁・代表をつとめた立憲国民党や革新倶楽部の、山形県支部事務長であったという。 『木堂雑誌 16(11)』には、犬養から平野成継に宛てた書簡が収録されており、それによると、大正11年(1922)11月22日、山形県で犬養の書の展覧会が開催されたことが記されている。 ちなみにその書簡で犬養は、「醜穢拙陋、背ニ汗するを覚候」と、自分の書が下手だからという理由で、恥ずかしがっている。 犬養は能書家として知られているが、ここでは謙遜しているのである。 平野成継の役職や、彼と犬養との交流を示す書簡が存在することから、宛名の「平野御令室様」とは、平野成継の夫人を指している可能性が高いものと思われる。 書簡のなかで犬養は、平野成継の健康を気づかっているが、どうもそのころ平野は激務によって、体調を崩していたらしい。
【4】年次比定 書簡であるため、この資料には年号が記されていない。 この書簡は11月16日付であるが、はたしていつ書かれたものであろうか。 結論からいって、これは大正13年(1924)11月16日に書かれたものと考えられる。 書簡の中にある「今日の夕方に大阪・京都に行き、数日中には東京に帰る」という文言が手がかりとなる。 残された資料から、犬養が11月16日から数日間、大阪・京都へ出かけていたことが明らかなのは、大正13年(1924)だけである。 『木堂雑誌 2(1月號)』によると、この年11月18日、革新倶楽部関西大会が大阪の中央公会堂で開かれた。 革新倶楽部の代表である犬養は、そこで集まった支持者たちに演説をおこなっている。 この書簡が書かれた大正13年(1924)、犬養は加藤高明内閣の逓信大臣をつとめていた。 翌年(1925)5月に普通選挙法が成立すると、つねづね普通選挙の導入を主張していた犬養は、それを見届けたかのように、引退を表明して議員を辞職する。 しかし実際には、地元岡山の支持者の強い懇願があり、政治家に返り咲く。 昭和6年(1931)12月13日、内閣総理大臣となるが、翌年(1932)5月15日、首相官邸で海軍青年将校に襲われ、死去する(五・一五事件)。
【5】書簡の用紙と犬養の文人趣味 余談になるが、この書簡は、「上海九華堂厚記製」という用紙に書かれている。 上海にある文房具店が売り出していた用紙と思われる。 犬養には、中国の古紙・墨・硯などの文房具をコレクションする趣味があったが、この用紙も、彼の文人趣味から入手、使用されたものと考えられる。 ちなみに『木堂雑誌 13(5)』によると、犬養の五周忌(1936年)の追悼会で、「専念箴」と呼ばれる犬養の格言が書かれた用紙が、来会者たちに配られた。 同雑誌に掲載されている写真をみると、「専念箴」は、「上海九華堂厚記製」という用紙に書かれている。 この書簡といい、「専念箴」といい、使用している用紙から、犬養の文人趣味がうかがえるのである。 以下、「専念箴」を引用しておく。
凡て人ハ立志が第一也、已ニ志を 立てたる上ハ、専念一意に邁進 して、日夜勉めて怠らざれハ、必す其 事業を成就するもの也、成業の訣ハ、 専念の二字と知るべし、 犬養毅(木堂印) 上海九華堂厚記製
【参考文献】 『木堂雑誌』1924~40年 『木堂雑誌 2(1月號)』木堂雑誌発行所、1925年1月 『木堂雑誌 13(4)』木堂雑誌発行所、1936年5月 『木堂雑誌 13(5)』木堂雑誌発行所、1936年6月 『木堂雑誌 16(11)』木堂雑誌発行所、1939年12月 『方寸 第4号』酒田古文書同好会、1972年 小林惟司『ミネルヴァ日本評伝選 犬養毅――党派に殉ぜず、国家に殉ず――』ミネルヴァ書房、2009年 横山健堂「犬養木堂の文房趣味と私の阿片管(上)」(『木堂雑誌 13(4)』木堂雑誌発行所、1936年5月) 横山健堂「犬養木堂の文房趣味と私の阿片管(下)」(『木堂雑誌 13(5)』木堂雑誌発行所、1936年6月) 古書・面白半分HPへ にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.10.11 07:27:51
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