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鬼道場日誌...(時々,温泉)

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2018.02.27
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カテゴリ:剣道日本
自分が高校生のとき買った剣道日本。
昭和53年1月号
ボロボロだけど、、お宝かなぁ~。


昭和の剣聖 持田盛二 範士十段の お話しとなります。
ある程度、丸写しです。

始まり 始まり~~~~~~!

表紙の写真は、持田範士愛用の面でー数十年にわたる稽古に耐えてきた面金は、その激しさを物語るかのように ゆがんでいる。


剣 一筋の人生 どこまでも 修行あるのみ

◎言葉でなく実行で示す
静かで立派な人、腕前だけでなく人間的に偉い人、一口に言って本当に立派な人。
持田盛二を知る人が過去の思い出の淵に師の姿を見たとき、口をついて出る言葉はみな共通している。
浮かび上がった姿に、しみじみと在りし日を回想すればするほど、言葉は失われていく。
ああだこうだと生前の人について多言を要さないほどに立派だったのだ。
書も文も持田盛二はほとんど残さなかった。
口で指導することのなかった彼は言葉という形で教訓を残すこともなかった。
逆に、なにも残さない人だからこそ、それだけ立派だったのだという人もいる。
彼を知る人にとっては、形ある物として残されていることを必要とはしない。
脳裏にしかと刻み込まれた姿だけで充分なのだ。
その姿から漂う気位、気品、が無言のうちに彼を知る者の心に迫ってくる。
だから立派な人としか言いようがないのだろう。
彼を一級の人物と表現したある人は「仮に政治家になったとしても立派な政治家になったのではないでしょうか」と感想をもらしている。

昭和15年の天覧試合で優勝した増田真助がある時こんなことを持田に言った。
「先生、私は三段までの者には打たせますが、四段から上の者には初太刀一本打たせて、あとは打たせません。」
持田はその言葉に淡々と答えた。
「そうかなぁ、私は初段の者がきたら私も初段と同じように、九段の者がきたら九段と同じように、互角に使いたいと思っているが...」
常に相手と自分とが一体になるのが剣道であり、道であるはずだ。
相手と競うばかりが道ではない。
彼はそのことを言葉ではなく行動によって実行していた。
そんな彼にとって思いやりは決して意識したものではなく自然のものだったのである。

昭和2年 彼は42才という異例の若さで範士になった。
そのときのいきさつにこんなエピソードがある。
当初、右武会が範士に推薦したのは、持田盛二、斎村五郎、小川金之助、中野宗助の4名だった。
いずれも、のちに十段になるそうそうたる顔ぶれだったが、審査の結果、斎村五郎だけが落ちてしまったのである。
このとき持田は、「4人一緒に推薦されながら一人だけ落ちてしまうとはあまりにもこの毒です。今年は我々もご辞退して来年そろっていただくというのはいかがでしょう」と提案したというのである。
42才という競争心が一番強くなる時に、彼はごく自然な気持ちで提案した。
来年ではなく今年、明日ではなく今日ー、すべての欲は本来そんな形に心をはしらせるものだ。
ましてや、最高位の称号である。
結局、彼の提案は実現をみなかったが、人間持田盛二をこのエピソードが物語ってあまりある。
本当に立派な人間なのだ。その立派さは、天性のものであるかもしれない。
しかし、どんなにすばらしい天性を持っていても努力がなければ花開くものではない。

それが80才をすぎてなお、竹刀をとり若い強者をしてまったくよせつけなかったという驚異的事実を可能にしたのである。


昭和四年の天覧試合で高野茂義を破り、剣道日本一に輝く。
このとき、持田盛二、四四才。最も意気盛んの頃である。
優勝の翌年、その人格と剣風に魅せられた講談社の野間青治社長に請われて、彼が野間道場の師範となるや、彼に手合わせ願わんものと、全国の剣客が殺到し、野間道場は東京における剣道のメッカの一つとなり、天下に名を知られるようになった。
流派にとらわれず自由に稽古ができることから、自然、それまでの剣道界の派閥は融和され、剣道の隆盛を招き、それは、今日の発展へとつながった。


明治38年10月、大日本武徳会によって京都に「武術教員養成所」が設けられ、プロの剣道家になるため、ここに全国の武徳会支部の推薦を得た剣士たちがやってきた。
持田盛二も、その一人であった。
養成所の修行年限は2年だが、彼は40年に入所して翌年に早くも卒業している。
内藤高治や門内正らの教えを受け、斎村五郎、大島治喜太、堀正平といった僚友らと剣を交えることで、彼の腕は一段と磨かれた。



昭和4年5月5日、宮城内.覆馬場で行われた「御大礼記念武道大会」指定選士の決勝は長身の持田盛二と太兵の高野茂義の勝負となった。
両者、実力は互角。
一本目、高野が得意の上段からメンに打ち下ろすところ持田は右へ体を移してドウを決める。
続いて二本目、高野が一本を取り返そうと攻めに出るところ、持田はコテを打って勝った。
この試合で盛二は、天下に名を知らしめた
ときに四四才.



「剣道は人間道である」とした講談社野間清治社長は、子息の英才教育と社員教育のために、大正14年の秋、道場を設けた。
ここは、一般に門戸を開いていたため、在京の剣士の交流の場となり、その名を高めた。
とくに年末年始の土日間を除く年中無休の朝稽古は有名でこの習慣は今も続けられている。
昭和5年、師範に迎えられた持田盛二は、84才に至るまで竹刀を握り、その半生をこの道場に献げた。


持田盛二と斎村五郎、温和と豪気、二人のタイプはまったく対照的だったがその意気投合ぶりは定評があった。

◇十段なんていらない
持田盛二は昭和32年、72才で十段を授与されている。
妙義道場で全剣連の使者を迎えた彼は喜ぶどころか怒ったという。
「そんなものはいらない。段は実力に対して与えられるものだ。私はとてもそんなものをもらう自信はない。
自信のない者がもらう段なんて無意味ではないか」と。



剣界の最長老となっても、稽古にあたれば、後輩に「私の剣は、姿勢はどうでしょう」と辞を低くして問いかける。
その謙虚さから醸し出される気品はすべての人を感動させた。
剣道は終生のものを身をもって範を示し80才を過ぎてもなお、現役の猛者を相手に一歩も譲らなかった盛二の力はこの反省と努力に裏打ちされていた。
剣徳という言葉がこれほどにあてはまっている剣人は、彼をおいてないだろう。


昭和43年の明治百年記念大会で、83才とは思えぬ稽古を見せた。


ザっとは こんなことが載っています。
フゥー まだまだあるけど。。。




範士十段 持田盛二 
人間的に立派で凄い人なのであります。
憧れますねぇー





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最終更新日  2018.02.27 06:18:07
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