こういうのも、心移りの一種だろうか。
ウチノヒトに申しわけない、と思いながら、つい、アタラシイヒトに目がいく。見て見ぬふりをしようとするが、いよいよ心がうつろになっていく。
浴室の椅子の話である。
それに腰をおろして、髪やからだを洗ったり、たまにパックのようなものを塗りたくってしばらく待ったりするときにも、必要なあの、椅子。
さる通信販売のカタログに、具合のよさそうな椅子をみつけてしまった。
どう具合がいいか。
・椅子の脚が長い→ちぢこまらずに腰をおろせる。
・4本の棒状の脚に座面→湯垢がつくとしたら座面だけ。掃除が楽。
しかしなあ。
困るのは、長年入浴のひとときを共にしてきたウチノヒトのことなのだ。アタラシイヒトがいかに姿がよく、使い勝手がよさそうでも、話はかんたんではない。なにしろ、ウチノヒトとは、十五年以上一緒だったのだ。
ごくたまにだが、こういうことがある。
ウチノヒトだとか、アタラシイヒトなんて言うから、ドキリとするじゃあないの、と言うあなただって、家のなかでこんな心の動きを経験したことはあるのではないか。
なにせ、いまの世は、新しいものがあとからあとから、あとから登場する。
しかし、心移りを戒め、それを引きとめる力がある。長くつきあってきたモノとの縁の……、共有した時間の……、思い出の……力。
出合いの場面も思い起こされる。
これは、ちょっと辛いことがあったあのとき、自分を励ますつもりで買ったのだった、とか。
一目ぼれしたけれど、1度はその場をはなれ、思いきれずに途中から引き返してやっぱり買ったのだった、とか。
それがうちにきたことが、うれしくてうれしくて、とり出してはにんまりしたなあ、とか。
このたび、わたしはいいことを思いついた。
ウチノヒト、浴室から、末の子どもの部屋——つまり陸にあがってもらおう。
末の子どもが、自分の部屋の戸棚から何かをとり出したり、しまったりするとき、いちいち椅子をひきずってきて、それにのっかっているのを思いだしたのだ。少なくとも、彼女の身の丈が、戸棚に届くまで、そこで踏み台として働いてもらおうという思いつきだ。
ウチノヒトをごしごしと磨く。これからは水気とは無縁の暮らしになるのだ、磨いたあとは、よくよく干す。
そうだ、座面に模様をつけよう。
麻のひもとボンドをとり出して、くるくると貼りつける。陸にあがるのだから、甲羅のような模様を。長年の労にむくいて、というと話がうま過ぎるかもしれないが、気がつくと夢中になっていた。
それで、できたのが、これ。
ちょっと遠慮して、これができてから、アタラシイヒトに来てもらう。
これでひとまず。
めでたし、めでたし。
ウチノヒトは、無事、末の子どもの部屋へ。
座面には、麻のひもで甲羅(?)の模様を(写真右)。