静岡県のとある里での出合い。
出合った相手は、竃である。
こちらは、わたしと、十歳の末娘。
静かな里に移築した古民家の厨(くりや)で、ご飯を炊き、味噌汁をつくるという機会の尻尾を、ただ、つかまえている、という心持ちだ。
末の子どもにとっては、初めての竃でのご飯炊きだった。
こういうとき、うまくいくか、いかないかを心配しちゃだめなのよ、わーい、うれしいってね、そういう気持ちで、はじめちゃうの。ね、聞いてる? と、演説。
「わかってるって」
たき口(ぐち)は2つだが、まんなかにもう1つ小さな羽窯(はがま)がかかるようになっており、2つのたき口でもやした火で、そこには湯が沸く仕組みだ。
マッチや付け木がすこうし湿っていて、なかなか火がつかない(このあたりでは新聞紙は使わない約束。火の粉が煙突から上がってあぶないからだ)、夢中で、火をおこす。顔も手足も煤で汚れるが、そんなことはかまわない。
子どもは、火吹き竹を口にくわえ、口元をおさえて(息がもれないように)吹く。燃焼に必要な酸素を送りこみ、燃焼を妨げる灰を吹きとばす役目をする。
煙で、目がしみる。
思わず「タンマ!」と、叫ぶ。
火がついた!
「ついた、ついた」
と、ふたりではしゃぐ。
はじめチョロチョロ。
中パッパ。
じゅうじゅう(または、ぐつぐつ)いったら火を引いて。
赤子泣いてもふた取るな。
これは羽窯で、上手にご飯を炊く、炊き方のうた。
ほんとうに、このうたの通りだ。
ご飯が炊けるのを、味噌汁の実が煮えるのを待つあいだ、火を褒める。なんて、うつくしくて、たのもしい、火。
ご飯のほうの羽窯のなかみが沸騰し、分厚く重い木蓋を持ち上げんばかりに、「おねば」が吹いてくる。これが、「中パッパ」にあたるところだ。
わたしのうちの台所のたき口はガス台ではあるけれど、毎日ご飯を文化鍋で炊いているせいか、竃でのご飯炊きの感覚——とくに火を引くタイミングは、子どもにもわたしにもなんとなくわかるような気がしている。
「それ、いまだ」
すっと、火を引く。
ご飯。おいしく炊けた。
野菜たっぷりの味噌汁——大根、にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、かぼちゃ、そのほか、輪切りにしたとうもろこしも入れた——も、できた、できた。
末娘とわたし。
からだを使って働くよろこびに満ちて、ことばもない。
これが、竃です。
わくわくするでしょう。
竃・たき口の火です。
この火を、皆さんに見ていただきたくて。
なんだか、元気になるでしょう、
「火」を見ると。
※つぎのブログの更新は、7月4日(金)です。