「あおむしさんたちっ」
朝いちばん、ベランダのキハダの小木を住処にしているあおむしを見に行く。
「きょうも、お変わりないですかぁ」
お変わりなくないどころか。
わたしは、そこで、思いもかけない場面に遭遇した。
ブルーグレーのマントに黒いマスクの怪鳥が、キハダに接近。あおむしを口にくわえて、いままさに飛び立とうとするところだった。
あああ、と駆けよる暇(いとま)もなく、怪鳥とあおむしは、隣家の屋根のむこうに消えた。キハダの枝をさがすと、昨夜、寝る前にいたはずの、もう1匹のあおむしの姿もない。
怪鳥の正体は、シジュウカラだ。
さいきん読んだ園芸の本に、
「都会でガーデニングを始める方も、虫退治&楽しみのひとつとして、巣箱をかけてみることをおすすめします。おすすめはシジュウカラやヤマガラなどのカラ類です」(※)
というくだりがあり、ほおおっと感心したばかりだった。
だけど、だけど、と頭のなかがこんがらかる。
ええと、ええと、と考えがあふれる。
あおむしが、シジュウカラに連れ去られる(餌として)。このことにわたしが少なからず衝撃を受けるのは、この数日、あおむしに心を寄せていたからだ。が、シジュウカラの側に立場を置き換えてみると、あおむしをみつけて、それをヒナのもとに運ぶことは、自然の摂理。シジュウカラのつがいは、ヒナのために1日に300回も餌を運ぶそうなのだから。
子どものころから、わたしはいのちに対する感情をつくってきた。教育され、聞きかじり、影響を受けながら……。そして、あらゆるいのちを、できるかぎり大切にしたい、という感情をつくりあげた。
一方、この数日のあいだに、わたしがあおむしに寄せた気持ちというのは、つくりあげた感情というよりは、むしろ本能的なものだ。
わたしは、ちょっとしょんぼりする。
あおむしを失ったからということもあるが、それだけではない。自分が作り上げてきた感情世界のなかの、矛盾に追いつめられて、だ。
そして、朝ごはんに焼くつもりだったベーコンを、食べるのをよしたりして、いかにもとんちんかんに動揺している。
ひととして生きながら、思えば、かなりぎりぎりの場所で、いのちを大切にしたいと希っているわたしたち。そんなわたしたちが、ときどき見えない壁に突き当たる。はっとさせられる。
ああ、それこそが恩寵なのかもしれない。
はっとして、立ち止まり、考える。はっとして、立ち止まり、また考える。
※『柳生真吾のガーデニングはじめの一歩』(家の光協会刊)。この本を読むと、ガーデニングへの夢がふくらみます。
シジュウカラの写真を
撮りたかったけれども、
敏捷な彼らをカメラでとらえるのは、
むずかしそうです。
で、絵を描きました。
いかにもへたくそですが、
ベランダの手すりにとまって、
こんなふうにこちらを見ているのです。
ちょっと、首をかしげて……。