10月になると、ああ、そろそろ、と思う。
きょう、やってしまおうか。
まだ、ちょっと早いだろうか。
と、思案する。
そのうち、どんどん空は、高くなる。雲も夏のころよりずっと身軽になって、何か言いたげに流れていく。
とうとう10月も、最後の週になっていた。
きょうだ、と思った。
2階の居間網戸を全部はずして階下におろす。網戸を置き去りにして、自分だけまた階段をかけあがる。
わたしは、おもむろに———と言っても、ひとからは、そうは見えないかもしれない。ただ、自分にしてはめずらしく、おちつこうとする気持ちがはたらいている———窓ガラスを磨く。
空を拭っているような気持ち。
雲と遊ぶかたち。
これだけで、わたしは、とてつもないものを手に入れる。
ほんとうだ。
だって、毎年のことだ。
毎年、毎年、決まり事のように想うのだ。こんな些細なことが、これほどのことだったとは……と。
そうして、窓からちょっと離れて、坐る。
*
居間の窓はどこも、生成りのロールカーテンがついているばかりで、つまり、レースのカーテンがない。日中は、裸のガラス越しに、空を、外を、小さなベランダを、眺めている。
夏のあいだは、どうしても窓を開け放すことも多くなるし、その上、蚊やら虫やらが飛んでくるので、網戸をはめる。
網戸というもののありがたみを、じゅうぶんに知りながら、わたしは、ときどき、網戸を邪魔にする。もっとまっすぐに(ストレートというんだろうか)、空を、外を、ベランダの草木の顔色を見せておくれ、とばかりに。
それだから、10月になると。
居間の網戸をはずして、ガラス戸だけにするというわけだ。ガラスの窓を開け放したときの、あけっぴろげな感じがたまらない。
空が、たずねてきている。
やあ。
じつは、この時期の蚊は、夏のそれとは比べものにならぬほど、しぶとい。刺されたときのかゆさにも、圧倒される。家の者たちには、秋の蚊のしぶとさなどは告げず、「もう、朝晩の気温も下がってきたことだから、そろそろ網戸をはずすよ」とだけ宣言する。
そういうわけで、この家では、秋も相当に深まり、ほとんど、ひとが冬だと思うころまで、蚊遣りをたく。開け放した窓から招き入れておきながら、煙に巻くという仕打ちは、この季節の蚊の運命としては、無慈悲に過ぎるかもしれないにしても。
空を眺める。
雲と遊ぶ。
陽光とたわむれる。
この絵は、
まんなかの子どもが、
小学校の低学年のころに、
描いたものです。
「あ、白いさつまいも!」と言ったら、
怒りましたねえ。
わかっていますとも、青空に浮かんだ雲です。
当時の仕事部屋の、窓のない北側の壁に
貼り、毎日毎日眺めました。
皆さんの11月のこころにも、
空を。