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カテゴリ:生活
———あ、また言ってる、わたし。 口の先だけ真似たって、追いつかないことは重重(じゅうじゅう)承知しているけれど、それだからこそ、という思いもある。 その台詞——— 「押しつけがましいのは、いけないのですけれど……」 あのひとは、20 年来のあこがれの女(ひと)。何かをすすめてくださるとき、決まって「押しつけがましいのは、いけないのですけれど……」と、前置きをする。 あのひとに対しては常に、些細なこと、どちらでもかまわないようなこと、もう、何でもいいからおしえてください、という気持ちを抱いているというのに。 むしろ、どんどん押しつけてもらいたいくらいだ。 けれど。 何度も言われたり、(お手紙やメールで)読んでいるうちに、なんだか奥の深い台詞だと、気づきはじめている。「押しつけがましいのは、いけないのですけれど……」を足がかりにして、自分の胸の堅くかたまったところにスコップを入れ、さくさく耕すことができるような心持ちになっている。 ことのはじめに「押しつけがましいのは……」というコトバを受けとると、何も考えずに、ずんずん先へ進もうとしている迂闊なわたしの歩みが止まる。立ち止まるわたしは、相手が何かを律しているらしい様子を遠巻きにして、自分自身も己を律するようなのだ、あわてて。 渡されたものを、無意識に受けとってはいけない、と。しっかり手をさしだして受けとり、それをふさわしい場所にしまいます(記憶の保存)、と誓いもする。 性分だからと思っていた「早呑みこみ」、うんざりしながらあきらめ、あきらめながらうんざりしてきた、数十年越しの「早合点」が、なおりかけている。「押しつけがましいのは、いけないのですけれど……」が楔(くさび)のように打ちこまれたおかげで。 さて。 ひとによくしてあげたい、と思うことがある。これを贈ろう、とか、こんなふうに言ってあげたいな、とか。こんなことしてあげちゃおう、とか。 そんな気持ちに突き動かされ実行したとしよう。そこまでは、実行したわたしの側の領域だから、ひとりで悦に入ったとしてもなんら問題は、ない。 ところが、だ。ここから先、じわりじわりと相手に向かって、期待のこころが寄せていくことがありはしないか。 「せっかく贈りものをしたのに、受けとったという知らせもない」 「とっておきのひとことを言ったのに、思ったほど喜んでもらえなかった」 「時間を捻出して、してあげたことだったんだけどな。わかってくれてないみたい」 とね。———好意が、押しつけがましさに変わる瞬間だ。 せっかくも、とっておきも、捻出も、自分の勝手なんである、ほんとうのところ。そうしたかったから、しただけのこと。 このごろ、それをしたら、したことを忘れてしまうくらいがちょうどいい。という気が、している。 ———こんなことができて、しあわせだったなあ。 それで、おしまい。 きょうはこれから、あのひとが「押しつけがましいのは、いけないのですけれど……」と前置きをしておしえてくだすった展覧会———わたしの家から徒歩15分の美術館に、あのひとの好きな絵がやってきている、と———に出かけるつもり。1度観てすっかりうれしくなり、きょう行けたら、2度めということになる。 手渡されるとそのことが、すっかりわたしのことになるところが……、何と言ったらいいのか、そう、自由なんだ。
この長靴、14cm。 皆さん、どうか、やさしい雨の日日を。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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