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カテゴリ:生活
書き損じたはがきの取りかえ(手数料を支払えば、はがきにも、相等の金額の切手にも換えてくれるという、あれ)。アルバム整理。保険の見直し。 しなくてはなあ、と思いながら、とりまぎれている。 とりまぎれるのなんかはお茶の子だ。 ところで、とりまぎれるとは、何に、何が混ざることだろうか。本筋に脇の話が、だろうか。脇の話に本筋が、だろうか。どちらも、わたしには同じことのように思える。どちらの筋が「正」で、どちらが「副」でも、しなくてはいけないことに変わりはない。それならばいっそ、正副は云わないほうが潔くはないか。 そんなことを考えながら、ふと、机の横にある本棚のてっぺんに、目がいく。 ああ、ここにもあった。てっぺんに居場所をみつけて籠を上げてから、2年が過ぎようとしている。そのあいだ、ときどき見上げては、ため息をついていたのだ。 ——またきっと、これを持ちたい。 あけびの籠だ。 当時姑だったやえばあに、銀座でこれを買ってもらった。銀座はやえばあの生まれ育った地だったから、すたすたと歩くその隣りをついて歩いて、ほうぼうでおもしろいものをたんと見た。「民芸」の世界を知ったのもそのころで、それまでついぞ知り得なかった風合いの焼きもの、染め・織りもの、木や竹の工芸品に出合ったのだった。「民芸」の流れをしかと受けとめる銀座のその店で、いきなりやえばあは、あけびの籠——手提げの籠である——を、「これがいいかな」と云ってもとめてしまった。買ってもらっておきながら、「いきなり」「もとめてしまった」もないけれど、その勢いには、それをわたしに持たせたいというつよい意志のようなものがあった。 店の奥の、台の向こう側にいたひとの告げる数字の大きさにおどろく。 ——こんな、木の枝か蔓(つる)みたようなもので編んだ籠が、こんなに高価なのか。 と、思った。そのうつくしさには、じゅうぶん惹かれていたのではあるけれど。なにしろ、当時持っていたどんな鞄よりも、その値段は高かった。 ほんとうの魅力を知ったのは、使いはじめてからだった。その実用性、そのうつくしさ。なんともいえなかった。 あるとき、あけびの籠を手に新宿の街を歩いていたら、ばったり近所の男(ひと)と鉢合わせした。 ——あなたでしたか。いやあ、買いもの籠、久しぶりに見ましたな。しかし、これを提げてお出かけなんですか。 と云う。「はあ、これ提げて、出かけてきました」 その男(ひと)は、ハンドバッグを持つべきところを買いもの籠を提げてきた風変わりな女、というふうにわたしを見たのだった。そんなことはかまわないし、おもしろいとも感じた。やえばあに、こうしたものの見方をおそわらなければ、わたしもそんな風な見方をしていたかもしれないのだもの。 またあるときには、こんなことがあった。 季節は秋のおわりである。セーターを着こみ、わたしはそのときもあけびの籠を提げて歩いていた。 ——まあ、あなた。 と声をかけられた。目を上げると、それは中年を過ぎようとするころの、上品な女(ひと)であった。 ——この季節にも、あけびの籠は持っていいんですね。なんとなく、あれは夏だけという気がしておりましたけれど、あなたのそれ、素敵です。わたくしも、早速持つことにしましょう。 と、ひと息に云われる。 ——わたしは冬でも、持ちますねえ。それなりのよさを感じます。 そういうあけびの籠なのだ。 気がつけばこれを、25年間使ってきた。その25年のしまいの2 年、本棚のてっぺんに押しやって。わるいことをしたなあ。なぜそんなことになったかといえば、わたしが本、それも分厚い単行本を数冊入れて運んだりしたせいで、いつか、持ち手を本体につなぐあけびの蔓の一部が、切れていたのである。本を持ち歩く習性は仕方ないにしても、あけびの籠には無理をさせた。 そうしてとうとう、やえばあにこれを買ってもらった銀座の店に出かけていく。電話で持ち手のとり換えのできることをたしかめて出たのだ。 店にいた若いひとに事情を話すと、「お待ちを」と云って、2階に誰かを呼びに行った。若いひとにつづいて下りてきた初老のひとは、籠を見ると目を細め、 ——おお、おお、これは秋田のものですねえ。 と云う。「どんなものでもなおせますけれど、持ち手を換えるとなると、8千5百円からかかり……」と呟きながら、鼻めがねで眺めまわすうち、「お待ちください、お待ちください」とうれしそうな声になった。 ——たしかに、持ち手を支える3本のうち1本が切れているところはあります。が、持ち手の巻きはゆるんでおりませんから、ダイジョウブ。まだ、とり換えには早うございます。もう少し使って、ほんとうに持ち手が切れてしまったり、巻きがゆるんでから、また、お持ちください、なに、どんなに古くなりましても、なおせますから。これなんかは、この店のものとしてはまだまだ若いほうの籠でございます。 どういったものか。 じーんとした。使い手の神経が、つくり手、扱い手の愛着にてんで届いていない恥ずかしさもあるにはあったが、あまりのことに感動してしまった。大事なひとが怪我をしたけれども、いまのところ手術も、治療さえも必要ない、と云われたようなものだった。 それから、もう、毎日のようにこれを提げている。 あけびの籠の、全体像です。 いとおしい、です。
3本の蔓でつながるところが、ほらね、 2本になっているでしょう。 それで、びっくりして使わないでいたのでしたが……。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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