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カテゴリ:生活
——きょうは、いい日だった。たのしかった。 その日のおわりに、気がつくとそうつぶやいていた。云ってしまってから、はっとする。たのしいは、不謹慎だったかもしれない、と。 しかし、ちょっと考えて、やはりたのしかった、と思った。 ——きょうは、いい日でした。たのしかった。伯母さま、どうもありがとうございます。 夫の母の姉さん、つまり伯母が、88歳で亡くなった。 5人きょうだいの末っ子の母は、これでひとりになってしまった。母はさいごの10か月間、ひとり暮らしだった姉さんの介護に通いつづけた、1 日も休まず。自分で車を運転して出かけていく姿を、わたしも何度か見ている。そういう生活がどのくらいつづくだろうとは、ちっとも考えなかったなあと、あとから思い返している。 それはわたしが呑気だからでもあるけれど、母があたりまえの顔をしていた、ということが、やはり大きい。ため息なんかはつかなかった。父も、母が介護に通う分、家のことをして「あと片づけがうまくなってしまった」などと云って笑っている。 伯母がとつぜん逝ったという知らせを受けて、わたしは、母の顔を見なくちゃ、と思った。泣き言は云わないのに決まっているから、顔を見たかった。顔を見れば、どんなにさびしがっているか、どんなにくたびれたか、どんなふうな感慨におそわれているか、ちょっとはわかるだろうから。そう思いながら、わたしは母を、ほんとうに好きなんだなあと思い知って、かすかに驚く。思えば、これが1ばんめの「たのしかった」だったのかもしれない。 夫婦で葬儀に参列してみると、わたしには初めての顔も少なからずあったが、窮屈なことも煙たさもなく、云い塩梅(あんばい)の居場所がある。わたしの居場所……。それは、父と母がわたしのいないところでつくってくれたものだった。 葬儀はこじんまりとしたものだったし、型通りと云えばそういうことになる。しかし、どこかにそよぐものがあった。そよぐとは、そよそよと音をたてることをさすが、漢字で書くと「戦ぐ」となる。英語だと「tremble」。身震いしたり、戦(おのの)く感じ、気を揉むという意味もある単語だ。わたしは、そよ風の心地よさを云いたいのだけれど、なるほど、吹かせるもの意志や意図あっての風だったのかもしれない。伯母の意。伯母の風。 その風は、わたしに居場所をつくり、その場の何かとつなげた。死は、生と生をつなぐもの、なのだろうか。 もうひとつ、葬儀の最中におもしろいことがあった。これをおもしろいと呼ぶのは、またしても不謹慎かもしれないのだけれど、わたしにはおもしろくてならなかった。 親戚を代表して、伯母の妹である母のつれあい、つまり父が、挨拶をしたときのこと。伯母が戦争未亡人であったこと、一人子(ひとりご)を病気で失ったことを父が、「いくつかの悲運にめぐまれて」と云った。これは、父にはめずらし云い違いであって、おそらく「いくつかの悲運にみまわれて」と云うところだったのだろう。が、この云い違いが、何故だろう、不思議なほど胸にのこった。幸運と、悲運と分けて考えるのは人間だけで——めぐまれるか、みまわれるかと分けることも、また——ほんとはどちらもただ、与えられるものなのだ。そのことが、すとんと、胸におさまった。 伯母は、与えられた運命にもめげず、若いころしていた洋裁の勉強に、さらなる勉強をかさねて、腕に職をもったのだった。その腕は、自らの身を助けたばかりでなく、まわりを長く楽しませつづけたのである。
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