タイミングということばを耳にすると、いまでもかすかにどきっする。
若いころは、タイミングを合わせる自信がなくて、「タイミング」と、何でもなく云ったり、すらっと書くことが、できなかった。それで、記憶の底のほうから、「時宜(じぎ。しぎとも読むようだ)」ということばを引きあげてきたり——時宜にかなう、とか、時宜を得る、という風につかう——「頃合い」というのをみつけてきて、云い換えていた。
云い換えたって、そのことはどの道「タイミング」なのだ。
わたしをどきっとさせるのは、このことばたちが共通してもとめてくる「判断」なのだ。
はじまりは、子どものころ、母に叱られるような場面でしばしば云われた「タイミングがわるい子ねえ」というフレーズだ。これが、耳にこびりついた。
しかしだんだん、タイミング——いや頃合いと書かせていただこう——頃合いを見たり、合わせたりするのに、速度とか、咄嗟の動きというものは、たいした働きはしない、と知るようになっていく。
どうやらわたしは、ちょっと速過ぎるくらいだ。根がおっちょこちょいなものだから、判断といったようななだらかなものが下りてくる前に動いて台無しにする。つまり、見誤った頃合いを、つい追い越してしまっているのである。
大きな声では云えないけれど、結婚や離婚やそれに類する事ごと——それほどの遍歴があるわけではないが——や仕事、家うつりなど、ありとあらゆる人生の節目を、見誤ったような気がしている。決めたことに後悔はないけれど、決め方が唐突だったり、決めてからそれをするまでの「間」をもとうとしなかったりして。
いやあ、ほんとうに、頃合いをびゅんびゅん追い越してしまってきた。
このことに気づいたのは四十代にさしかかったころだ。
気がはやり、はやったままに動くとずれる。
これがわかったときは、じつに神妙な心持ちになった。
また、別のあるとき。
つかもうとするとだめなんじゃないかと、ふと思った。もし、頃合いというものが降ってくるものだとしたら、わたしは落ちてくるそれを、そっと両の手で受けとめればいいということになる。
やってきた頃合いの顔を見てから考える、判断するというので、じゅうぶん間に合うことを発見したわたしは、以前の自分から見たら、すこし愚図(ぐず)になったようだ。けれど、愚図になったおかげで、自分が決めるのにちがいないけれど、頃合いを雲の合間から落としてよこしたものに応援されているような、やすらかな心境を得たのである。
ことしのはじめ、
しゃもじや木杓子を、あたらしくしました。
こういうのも「頃合い」です。
左から、ご飯のしゃもじ、カレー専用の木杓子
(カレーの黄色に、存分に染まってもらっていいように、
専用です)、その他の木杓子。
古い皆さんへ
どうもありがとうございました。
長いあいだ、ご苦労さまでした。
あたらしい皆さんへ
これから、どうぞよろしくお願いします。