ツカレタ、と呟いてみる。
もう一度呟く。
こんどは、クタビレタ、と。
気づかぬうちに疲労していることがあって、それは、ともかくうっかりしているからなのだが、こんなうっかりは返上しないといけない。それでときどき、「ツカレタ」、「クタビレタ」と呟いて、たしかめるようにしてみているわけだ。
呟きとしては、たのしい類(たぐい)のものではないけれど、これで少しは気がつくようになった。
気がついてどうするか。若いころは、長めの睡眠をとれば疲労から立ちなおることができたのに、このごろのは、そういうことではなおらない。——ような気がする。
もう少し、込みいった風に疲弊(ひへい)しているのだった。
何かが不足している。
何だろう。
静けさ。ビタミン。ぼんやり。
と、つぎつぎ考えていく。なんだか、ごろんところがりたくなる。この家では、子どもたちしかいわゆる寝台を持たないので、ころがる先は、主(ぬし)のいない3階の寝台。気に入りは、末の子どもの寝台だ。この子の部屋にはまだ幼さがあって、誰かの休息を引きうけてもかまわないというくらいの甘さが残っている。四畳半のこじんまりした部屋で、南の窓からは空が見えて。その寝台にころがれば、空のなかにころがるも同然という身の上になる。
ここでこっそり。そうしよう。
窓の向こうに、朝方干した洗濯ものがひるがえっている。気持ちのよい眺めだ。干したのはわたしで、干し具合もなかなかよろしい。そのひるがえりを眺めながらぼんやりしていると、こういうことで不足していたものが満ちるかもしれないという期待が湧く。そして「クタビレ」が消滅するかもしれない、と。
ところが、だ。
まだ、ちょっと足らないものがある。
ころがりからなおって、2階の居間兼食堂に下り、狭いベランダにならんだ鉢植えに目をやる。すると、足元からぴくんと上がってくるものがある。おやおや上がる、上がる。
みどりだ、みどりだと気づく。こんなにわずかな「みどり」なのに。
そうして、ここへもう少し「みどり」をと思いつき、思いつくなり靴を履いて、隣町の大きな園芸店にむかって歩きだしたのだ。
ハーブを植えてみようという算段。みどりだ、みどりだと、行きの道も帰りの道もはずんでいる。こういうのが「当たり」ということだろうし、「命中」なのだと思う。
そういえば、これまで「みどり」という名前のおひとに、ずいぶんと出会ってもきた。ひらがなで「みどり」、カタカナで「ミドリ」。漢字だと「緑」、「翠」、「美登里」。たしか従姉(いとこ)の子どもが「美鳥」だったはずだけれど、あれは意味がちがうのだろうか。そうそう、緑子(みどりこ)さんという方もあった。
なんにしてもいい名前だなあ、とあらためて感心する。
晩ごはんをつくりはじめる時間をすこうし過ぎてまで、その日、わたしは「みどり」をさわっていた。
それからひと月半。
ハーブたちは元気に育っています。
目やこころに効くばかりでなく、
台所でも活躍してくれています。
うれしい「みどり」。
昨年「フウセンカズラ」にしてもらった日よけを、
ことしは「朝顔」にしてもらうことにしました。
どうか、うまくいきますように。