ひきだしがからっぽになるということは、ありそうで、そうはない事態だ。
わたしにとっても初めてのことだった。ひきだしから、納まっていたモノを全部だして、ほこりをはらって隅隅まで拭うようなことなら、したことがある。それに、あるひきだしの中身を、すっかり別のモノと入れ替えたこともある。
が、このたびのように納めたモノが自然に減っていき、ある日すっかりなくなって、ひとつのひきだしが役目を全うするところを見たことはなかった。役目を全う、すなわち、からっぽだ。
そうして、このかっらぽを前に、わたしは、わが暮らしがちぢみはじめたことを悟ったのだった。決してモノをたくさん持ちたい質(たち)ではないし、実際、そうは持っていないつもりでも、この25年ばかりのあいだには、じわりじわりと暮らしはのびて、ふくらんだ。いったいどこまでのびるのか、と、ときどき不安にかられて、持ちものの見直しをすることはあったけれど、結局ちぢみはせずに、のびていた。
こうして、とつ然「ちぢみはじめ」に立ったわたしは、この地点を忘れないために、2つのことをしたのだった。
夫と子どもに向かって、こうささやいたのが、1つ。
「持ちものを、半分に減らしなさいな」
からっぽになったひきだしの、これからについて思いめぐらすことが、1つ。
*
1)「持ちものを、半分に減らしなさいな」
なぜ、そんなことをささやこうと思ったのか、じつのところ、よくはわからない。夫はわたしとともにちぢんでいけばいいわけだが、子どもたちは、まだのびもちぢみもはじまってはいない身の上だ。
そうにはちがいないけれど、モノを持つことに、そしていつしかモノがふえていくなりゆきに馴れてほしくなかった。ひとつモノを使いつづけたり、あるときは修繕したり、何より、ふやそうというとき立ち止まるひとであってもらいたい、と。
それを伝えるのに、なぜだか乱暴にも「持ちものを、半分に減らしなさいな」と告げていた。3人はそれぞれ、「なにそれ?」「ふぁーい」「へ? わかった」という、あいまいな反応を示した。
ささやいて、耳だか胸だかに注ぎこんでおくのが目的だから、それでよしとした。
「なるべく捨てないで、減らすのよ」
2)からっぽのひきだし
忽然(こつぜん)と姿をあらわした、からっぽのひきだしを見たとき、このまま、つまりからっぽのままでおくのもわるくないと、思った。家のなかに、こんなからっぽがふえていくのだとしたら、「ちぢみ」が進んでいる証拠だもの。
けれど、「忽然」から10日ほど過ぎた日のこと、わたしは再びささやいていた。こんどは自分自身向かって……。
「持ちものを、半分に減らしなさいな」
「え、わたしも?」
と、ささやき返す。
やれやれ、これじゃあ、子どもたちのあいまいな反応と少しもちがわないや、と気づいて、ちょっと顔が赤くなった。
「持ちものを、半分に減らしなさいな」
「あい」
と、自問自答をやりなおしながら、はっと思いつく。
このひきだしに、近い将来、この家から独立していくであろう子どもたちに託すモノを、そろそろしまうことにしよう、という思いつきだ。それは、末の子どもの「やがて身につけるであろうモノ」の後釜(あとがま)として、坐(すわ)りがよいようにも思えた。
まずは食器の類をと思って、ちゃぶ台の上にならべた。数こそ半端だけれどちょっと上等なコップや皿。一時(いっとき)さかんに使った弁当箱。子どもたちが幼い日、おやつ用だった皿。などなど……。
新聞紙にくるんで、ひきだしに納めた。
つぎは、花瓶や布あしらいのモノたちを見てみるとしよう。
*
これがからっぽになる日も、きっと不意におとずれるのだろう。
「ちぢみ」の、はじめの一歩です。