わたしはおつゆをつくるとき、利尻の最高のおこぶを煮やさず、つけだしにする。そうすると、おだしがおこぶくそうならないからである。そして、そのあと、おこぶは塩こぶにするように刻んで、赤はらのように乾いたちりめんじゃこといっしょに、佃煮にする。赤はらというのは、おなかに赤い子を持ったおじゃこで、これも高級品。
だし殻のおこぶをいただくために、赤はらを買い、お酒もみりんも使うて、たく。それはひとつも惜しいことはのうて、それを当たり前としている。
「へえー、おこぶのだし殻まで食べますのんか」
京都を知らないお人は、なにを食べさされるかわからんと思い、いやいやと手を振らはる。けれど、これは最高のおこぶやからできるので、安もんのだしこぶにしたらなんぼとろ火でたいても、硬うて食べられない。これはぜいたくである。
『しまつとぜいたくの間』(大村しげ著/佼成出版社)
——「目立たんところのぜいたく」より
先週ぜいたくの話を書いたあと、頭のなかがこんがらかって弱っていた。
従来考えられていたぜいたくが、わたしのなかでだんだんにちがったものへとずれていったあたりから、こんがらかりがはじまっていたらしい。ずれはじめのそこで、それを「ぜいたく」と呼ぶのをやめ、別の名前をつけてやればよかったのかもしれない。
某出版社の編集者が以前、「この本に出てくるぜいたくや節約は、山本さんが考えているのと、似ているような気がします」と云ってすすめてくれた本のことを思いだした。そのころ、節約をテーマに本を書くことになっていたので、ヒントになれば、とその本を運んできてくれたらしかった。
けれど、実際、書きはじめようというとき、ひとさまの本は読めないものだ。ヒントという風がそよぐ本となれば、なおさらだ。
自分のなかに生まれそうになってまた消え、消えたかと思うとふとあらわれたりというひらめきを、もとめながらひとりきりで歩いていくしかないからで、わたしは、その本を、「INGの箱」(『片づけたがり』P43参照)の底のほうにしまったきり、忘れてしまった。
その本のことを、1年以上たったいまごろになって、思いだしたのだった。
読みはじめてみるととまらず、一気に読んでしまった。大村しげさんの京ことばに誘われて、こちらの口のそばまで京都のことばがのぼってきそうな気配である。
そして、ぜいたくということで、すっかりこんがらかっていたわたしの頭のなかの整理もついている。どこへ自分の価値を置くかだな、と思いあたる。
同じ随筆(「目立たんところのぜいたく」)のなかに、大村さんが、大事に長いこと着た羽織を上っ張りにしようかと思案する話が出てくる。はじめは、無地の着物だった。色が焼けてきたので染め替えてしばらく着て、また染め替えて羽織にした。これもおこぶの話とおんなじで、もともと一越(ひとこし)の上物を買ったからできたことだという。
一越って何だ?と思って、辞書をひいたら、「一越縮緬(ちりめん)」の略だとわかった。一越縮緬がまたわからないから、また辞書をひく。どうやら、緯糸(ぬきいと/織りものの横糸)をより多く織りこんであるものらしい。そのため、一越はふつうの縮緬より皺(しぼ)が、細かい。
目立たんところということは、ひとがどう見るかなんてことはないのに等しいのかもしれない。自分とモノとの命の共有。さあ、さあ、さあ、さあ、どこまでともにゆけるだろうかという……。
つまり節約していたつもりが結果としてそれがぜいたくだった、ということも少なからずあるというわけだ。頭のなかで、考えをこねくりまわしていると、いかによき本に出合ったとしても、またこんがらかりそうだ。きょうはこのあたりで失礼して、わたしもだしこぶで佃煮をこしらえてくるとしよう。
こしらえてみて、もう少しいいおこぶを買ってもいいかなあと考えるのなんかは、じつにぜいたくな話ではないだろうか。
先週の手ぬぐいにつづいて、
「わたしのぜいたくⅡ」ということになるか、と。
書斎の机で、仕事をはじめるときに1本香を焚きます。
これは白檀の線香(「いかるが」/鳩居堂)なのですが、
甘みのないところ気に入って、長いこと愛用しています。
香類は、机のすぐ左側のひきだしに入れています。
このひきだしに手をのばすたび、云い知れぬ気持ちに
なります。
それが、ぜいたくなときめきでもあり、
仕事に向かう覚悟でもあるように思えます。