わたしは、ひとつだけ魔法をつかえる。
どんなふうな魔法かを記しておかないと、読むひとによっては恐ろしい魔女の仕事を想像するかもしれない。
ひきはじめの風邪をなおす魔法である。
30年ほど前のある年の暮れ、わたしは出版社の編集室にいた。ただでさえせわしない雑誌の編集作業に年末進行が加わったてんやわんやのさなか、どこからか風邪をもらってしまった。背中がぞくぞくする。……困った。
そのときだ。当時机をならべて仕事をしていたKさんが、「どれどれ」と立ち上がった。Kさんとは母娘ほども年齢がちがっていたが、親しい友だち同士でもあった。寒気が襲ってきたのを、わたし自身が気がつくより早く気がついてくれたようだった。
Kさんはわたしの背中にまわり、右の肩甲骨のあたりをさする。何かをさがすようにしばらくさすっていたが、「いくよ」と云って、親指で背中の一点をぐーっと押した。痛いと云うこともできるし、いい気持ちだと云うこともできる、が、何より効いているという実感がからだ全体にひろがった。Kさんは、云う。「ここは風邪のツボなのよ。この一点がみつかると、指がぐーっと入りこむの。ほら、わたしの指のつけ根まで入ってる。効くよー」
これが効いたのである。わたしの寒気はたちまち消え去って、これからどっぷり風邪に浸りこもうとしていたからだが、しゃんとした。驚く腕前である。
「魔法みたい」とKさんに云う。
Kさんは「仕事、仕事。初校の読み合わせしちゃおうか」と云う。
これが、わたしに魔法が伝授されたときのはなしである。
以来、どのくらい、あのとき伝授された魔法をつかったことだろう。
家の者たちにはもちろん、出かけた先でも、たびたびこの魔法をつかった。子どもの通う保育園、美容院、バスのなか(となり合わせた老婦人が「寒気がする」と打ち明けた)、道の上(宅急便配達のおじさんが風邪ひきだった)など、いろいろの場所で魔法使いになったなあ。Kさんが、親指でぐーっと背中を押しながら云ったあたたかみに満ちた合(あい)の手を真似るのを忘れずに。
「効くよー」
魔法魔法と云っているが、ほんとうは魔法でないことは、承知している。けれど、暮らしにくいところの少なくはないいまの世、そんなことのひとつも云ってみたくなる。そしてそれは、「風邪、お大事に」と声をかけるかわりにすることだから、魔法と云っても許してもらえるような気がして。
わたしの魔法にかかってくれた人びとは、みんなからだが楽になったと、云ってくれる。「風邪がなおったような気がする」とまで云ってくれるひともある。それほどのことでなかったかもしれなくても、魔法使いとしたらうれしい。互いのあいだに、「風邪、なおしてほしい」という思いと、「ありがとう」という思いが通いあうのがこの魔法のいいところ。
さて。その魔法、ささやかに伝授させていただこう。
風邪をひきかけたそのひとの背中にまわり、右の肩甲骨の上部をさぐると、そのツボはみつかる。親指の腹で押して、指がぐーっとなかに入りこんだなら、まさにそれがそのツボである。ここがみつけられたら、魔法は半分かけられたも同じ。あとは気を入れて指を押しこみ、「効くよー」とやさしい声で云うだけでいい。
ところで。
この魔法には、おもしろい一面がある。
それは、自分にはかけられない、というものだ。
3年休んで、ことし1月、味噌づくりを
復活させました。
わたし自身が仕込んだのにちがいないのですが、
こうして完成してみると、不思議で不思議で、
魔法のようだと思うのです。
わたしたちの暮らしのなかには、
魔法のようなことがいっぱいありますね。
*
「家の仕事に憩いあり」という名の小さな読者の会を、
11月30日(水)東京都豊島区の自由学園・明日館にて開きました。
36人の皆さんと、たのしいひとときをもちました。
(抽選のため、参加していただけなかったかたができたこと、お許しく
ださい)。
親しい気持ちになって、わたしのはなしは雑談に終始しましたけれど、
共通の問題や、暮らしのなかにあるおもしろみを確かめ合うことが
できたと思っています。どうもありがとうございました。