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カテゴリ:うふふ日記
「おおげさ」は、漢字もおおげさだ。
「大」は三画だが、「袈裟」のふたつは画数も多い。ここで、ああ、袈裟(けさ)ね、と気がついて広辞苑を引くと、やっぱりそうだ。このことばは袈裟を源として発している。大きな袈裟。 つぎに「袈裟」を引いてみると、「インドの僧侶の服」の意味と「中国・日本の、僧侶の左肩から右腋下にかけて衣の上を覆う長方形の布」の意味とが記されていた。おもしろいのは、梵語(ぼんご/サンスクリット)で「壊色(えじき)・混濁色」を意味する「カシャーヤ」の音訳とのことだ。壊れる色とは何だろうかと思い、こんどは『色の手帖』に当たる。壊色をさがすも、みつからない。いくつかの国語辞典と百科事典をひっくり返し、壊色には、青壊色、黒壊色、木蘭(もくらん)壊色の三種類があることがわかった。それはつまり濁った色のことで、その昔の袈裟には正色(せいしょく)が使われなかったことにつながってゆくようだ。正色は、中国伝来の五色(五行思想にもとづいたもので、青、赤、黄、白、黒)のこと。 わたしの年代までは(わたしは1958年生まれ)、「け」のつく名前(けいこ、あけみ、たけこほか)と云えば、袈裟の「袈」をとってつけたものが少なくなかった。友人には、けさ子さんもいる。 あらあら? わたしは何を書こうとしているのだったのか。 白湯(さゆ)を一杯飲んだら、思いだした。 白湯は血のめぐりがよくなるのだろうか。白湯とは、きれいなことばではないか。広辞苑を引くと……、いや、いけない。はなしが、またどこかへ迷いそうである。 わたしがしようとしたのは「大袈裟」のはなしだった。 大袈裟は、あまり好かれない。子どものころすでに、ちょっと転んでひざを擦りむいたくらいで騒ぐと「オオゲサ」とからかうような風潮があった。「オオゲサ」と決めつけられたくないばかりに、やせ我慢を学んだなあ。大人になってからも、大袈裟よりさりげなさに人気が集中していたような気がする。知らぬうちにわたしも、なるべくいろいろなことが大袈裟にならぬように気をつけた。 ところが近年、それが変わってきたのである。 毎日毎日、くり返しを生きるなかで(それはもちろん、時間も季節も風景も、事態も時代もうつろってゆくのであるけれども)、小さな発見をひとつひとつ大袈裟に驚き、ささやかなことをいちいち大袈裟に感動したいと希うようになっている。 たとえば本日。 久しぶりに目覚まし時計の音で目が覚めたこと。弁当のなかのさつまいものレモン煮がきれいに見えたこと。友だちからすばらしくシックなクリスマスリースが送られてきたこと。これまた友だちから紅葉した葉っぱで包んだ柿の葉寿司が届いたこと。ぬか床にセロリを漬けたこと。数日地方に出かけていた夫が帰ってきたこと。秋の空がひろがっていること。りすのかたちの雲を見たこと。1週間見えなくなっていた大事なシャープペンシルが出てきたこと。……。 こんな事ごとを、大袈裟に驚いたりよろこんだりしないでどうする! とわたしは考えるのである。 現在、台所で使っているごみ箱です。 (前のうちで20年近く使ったものは、所替えしました)。 夫の仕事場で使っていたのを、まずはひとつ持ってきて、 木蓋をして用いていました。 最近、もうひとつもらって、二段重ねに……。 上の段は、燃えるごみ入れです。 下の段は……。 下の段には、ポリエチレンの袋、 古新聞紙(揚げものに使う)、 長くて棚におさまらないフリーザーバッグ、 紙袋を入れています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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