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田中およよNo2の「なんだかなー」日記

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2006年11月17日
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カテゴリ:硬派
なんか、読書に飽きると僕は芥川龍之介の作品をぱらぱらと見ることが多い。
じっくり読むのではなくて、ぱらぱらと読む。
いっつも、上手いなあ、凄いなあと感心する。
でも、文学史では彼は過小評価されている気が、している。

師匠とも言える夏目漱石や、森鴎外が未だに近代日本語小説の出発点として言われ、幻想文学では同じ漱石門下の内田百間の名前は未だに取り上げられる。
志賀直哉や武者小路実篤、さらに、太宰治や谷崎潤一郎、川端康成や横光利一たちは現在でも結構頻繁に論じられ、読書家の読まれているのに、どうも芥川龍之介はそんな感じではない。
文体が模倣されているという話もあまり聞かない。
川端や谷崎の文体を模倣している作家はかなりいるのに。

すでに出来上がっているのも一つの原因だろう。
ひな壇に立派ななりをして座っている。
その衣装が「教科書」っていうオスミツキだから、今更論じるまでもないだろうって。
みんな教科書と読書感想文で読み飽きているのだろう。

また、そういった客観的な要素だけではなく、彼本人にも原因があるともいえる。
彼が長編を書ききれなかったこと。
若くして自殺してしまったこともあるだろう。
文学史という研究で彼を論じるのが難しくなってしまうのかもしれない。

ただ、僕は、こう思う。

芥川龍之介の文体が日本文学の流れから外れているのではなかろうか、と。
突っ込んで言えば、芥川龍之介が提示した文体の可能性を日本文学はきっと広げてない、あるいは広げられなかったのではないか、と。

三五年という短い生涯だが、芥川龍之介の作品は初期、中期、後記とかなり赴きが違う。
初期は漢文や中国に強く影響を受けていて、後記には徐々に西洋の小説の枠組みとモチーフを利用している。
文体もそれにあわせて変化している。
シロウトメに言うと、初期のほうが漢字が難しい(苦笑)。

ただ、全時代を通して僕が感じていることが一つある。

文体が凄く「カッコイイ」こと。

無駄が見当たらない文章、きっちりと構成された物語や、モチーフ。
一文一文が筋肉質で、緊張感がある。
だけども、読者を突き放していないので、決してわかりにくいわけではない。
文章にピリッとした刺激があるから、読書に飽きたら、最適なんだろう。
漢詩という教養の土台があって初めてできた文体だろう。

長編が書けなかった理由もわかるような気がする。
無駄がなさ過ぎるのだ。
長編というものは、なにかしらの無駄や与太話を必要とする、成り立ちの小説だからだ。

同時に芥川龍之介が文学史に、その作品の質や実績と比べて、名前が挙がらないのは「カッコイイ」からではなかろうか。

口語と文語に長きに渡り別れていた日本語を、夏目漱石が一つ完成させたように明治期は「読みやすさ」をひとまず目指してきたといえる。
それは、英語をいかに翻訳するか、漢字やひらがなをそこに滑り込ませるか、そして、台詞を減らした地の文をどうするかで苦悶してきた経過でもある。

一応の文体のまとまりを見た明治期以降に、純文学といわれる日本文学が目指してきた文体は「美しさ」がメインであったと思う。
その「美しさ」は谷崎潤一郎が沃野を切り開き、川端康成と、三島由紀夫によって到達をみた。

到達の後には、当然、反動もある。
だけども、日本文学史において「美しさ」の反動は「カッコイイ」ではなかった。

「荒々しい」だった。

この「美しい」文体に反旗を翻したのが初期の大江健三郎の諸短編があり、中上健次の一連の作品群があり、そして、中期までの(「コインロッカーベイビーズ」まで)の村上龍だと、僕は捕らえている。

ただ、未だにこの「荒々しい」文体が日本の中央にいるかというと、そうではない。
きっと、作家にも読者にも体力を要求する文体なのだろう。

現在の日本の文学は吉本ばななや、江国香織が見せる女性人称や、村上春樹の僕がおりなす、「わかりやすい、語り」がメインストリームになっている。
一番推し進めているのが、町田康さんだろうけど、ここまでいくとあんまり、わかりやくすはない(苦笑)
地の文章から台詞をいかにはぐかではなく、地の文章にいかに台詞の要素を詰め込むか、ということにくるりと変わってきているのだ。
(この文体の変化をもたらしたのは、村上春樹の「僕」という人称だ)

芥川龍之介の死後、芥川龍之介の文章を流れとして受け継いだ作家も、派閥も少ないといえるのではないだろうか。
中島敦や、梶井基次郎に影響はあるが、両者とも寡作であるし、以後には作家が見当たらないことから、文体としての流れとしてはなっていない。

(ちなみに、北方謙三は芥川龍之介が大好きであるようだし、文体も似てるとの噂もあるけど、ごめんなさい。
読んでないので、書けないです。
わたしは北方謙三で読んだことがあるのは「試みの地平線」だけです。)

芥川龍之介が数々の短編で記した、日本語の「カッコイイ」可能性は誰も追及しなかったことになる。

悲しいし、残念だけど、僕は仕方がないのかなとも思う。
なぜなら、芥川龍之介の文章の可能性は、すでに完成していたから。
あまりにも、余分なものがなく、構成も緻密であるため、不足を感じないし、だれも突き詰めようと思わないのではないだろうか。
逆に、芥川龍之介自身でさえも、これ以上の小説を書くことができなかったために、自殺という道を選ばなければならなかったのではないだろうか。
己の素養を削り、削って、作品を完成させていたのではないだろうか。
筋肉だけでできた短距離走者の体のような「カッコヨサ」だからだ。
その筋肉で、さらに効率のよい体を身につけるのは困難なことなのだ。
悪く言うと、芥川龍之介の文章にはふくらみが欠ける。

だからこそ、芥川龍之介は無駄で、失敗作といわれてもいいから長編を書くべきだった。
ちょうど、志賀直哉が「暗夜行路」を書ききったように。

その無駄から新しい展開が、きっと生まれたはずだ。
だけど、きっと、才能がありすぎた芥川龍之介は失敗作を書くような冒険はできなかったし、作家として許せなかったのかもしれない。

人は時として、成長のためには無駄を進んで行う必要があるかもしれない。
芥川龍之介ほどの才能と実績があったとしても。

長くなったけど、芥川龍之介の作品が「カッコイイ」のは変わりない。
誰も後を継がなかったから、オリジナリティが輝いているのかも、しれない。

一度、教科書で読んだからといわずに、皆さんも再読されるといいと思う。
あまり、読書をされない方には短くて、面白いだろう。
普段から読書をされる方は、久し振りに読むとその上手さや「カッコイイ」にびっくりされると思いますよ。

※なお、芥川龍之介の作品の多くはこちらの青空文庫で読めます。
短いですが「黄粱夢」を僕はオススメします。
どうしても書籍で欲しい人には総ての小説を一冊で網羅した「ザ・龍之介大活字版」というとんでもないのか、素晴らしいのかわからない本をどうぞ。
また、細かい知識は『ウィキペディア(Wikipedia)』をご参照下さい。

※もっと、「なんだかなー」なら『目次・◎ものがたり(映画、音楽、文学、本)』まで





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最終更新日  2006年11月17日 22時58分30秒
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