興津宿から丸子宿手前(9/9)、駿府銀座からJR安倍川駅へ
府中宿の駿府銀座発祥の地から安倍川を越えて、丸子宿の入口にあるJR安倍川駅へ。3/15(金) 16:04旧東海道(県道208号線)を丸子宿へ16:07駐車場の上にある「津島神社」所在地:静岡県静岡市葵区梅屋町4-1二階が神社で、おみくじも自動販売機でユニークなシステム新通りの旧東海道16:15ここの神社も二階にある「秋葉神社」所在地:静岡県静岡市葵区新通1-8-1516:19県道208号線沿いにある、「府中の一里塚」所在地:静岡県静岡市葵区本通8-4-7一里塚の説明板だが判読できず。残っている一里塚は少ないと。市内長沼、本通八丁目、丸子、??、四?か所に設置されたが、いずれも現形をとどめていない。本通りの一里塚はその位置を変え、ここに移動してきたものであると県道208号線から振り返る16:25県道208号線から旧東海道の新通りへ戻る。たい焼きが美味しそうだったが16:28旧東海道の新通りを直進して、この交差点を右折16:29この先の安倍川橋手前で、旧東海道の新通りと県道208号線が合流する16:30県道208号線の弥勒(ミロク)交差点正面は「川根本町」方面、右は県道208号線県道208号線の弥勒交差点で安倍川橋方向16:31葵区弥勒、安倍川橋近くにある弥勒緑地にある安倍川架橋の碑この石碑は、宮崎総五氏が社会事業のためにと、明治7年に多額の私財を投じて建設した安倍川橋の架橋の顛末を、後世の人に伝えるために、明治41年に建てられた由比正雪公之墓趾夢舞台東海道道標「弥勒(MIROKU)」道標には丸子宿 宿境まで十六里(1.8km)府中宿 宿境まで二町(0.2km)弥勒歩みの跡(案内図)弥勒の町には、近世以降の歴史の中で「由比正雪墓趾碑」、昭和初めの小学校4年の教科書に載った「安倍川の義夫の碑」、溺死や剣難者のための「慰霊碑」・・・・・をはじめ、近世以降の弥勒を語る多くの歴史の跡が残されている江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で『正保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗して安倍川の河原で餅を売るようになった。この餅を”安倍川餅”という。これが「弥勒町」の名の由来となった』と記されている16:36弥勒緑地から旧東海道の新通りを振り返る県道208号線沿いに「駿府キリシタン殉教之碑」慶長17年(1612)3月、徳川幕府はキリシタン禁教令を発して原主水、おたあジュリアン直臣のキリシタン武士や侍女を駿府から追放し、当時二つあった駿府の教会を破壊した。禁教は次第に強化拡大され、慶長19年3月には町人キリシタンの中心として、八名が逮捕牢送りとなり、棄教を迫られた。・・・・・・・・・・・16:37元祖 安倍川餅「石部屋(セキベヤ)」休みであったが、安倍川餅は当初は餅に黄粉をまぶしただけだったが、貴重品の砂糖を使ってから評判になり、慶長年代には名物になっていた。家康が近くの金山に巡視に行ったときも、この餅が献上されたという。茶店では一個五文で十個を皿に盛り、客に出した石部屋の駐車場もあり、この横に「安倍川の義父の碑」がある安倍川の義父の碑所在地:静岡県静岡市葵区弥勒2-5この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。元文3年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金百五十両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津の谷峠で引返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。昭和4年(1929)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々の募金によって、安倍川の近くのこの地に碑が建てられた。昭和初めの小学校4年の教科書に載った「安倍川の義夫の碑」16:38安倍川橋の手前で、県道208号線を振り返る。この先の右方向は、旧東海道の新通り16:39安倍川橋橋の架かる安倍川は、静岡県と山梨県の境にある大谷嶺・八紘嶺・安倍峠に源を発する。源流の大谷嶺(標高2000m)の斜面は「大谷崩れ」と呼ばれ、長野県の稗田山崩れ富山県の鳶山崩れとともに日本三大崩とされている。一級水系安倍川の本流で、清流としても有名でその伏流水は静岡市の水道水にも使われている。大河川でありながら本流・支流にひとつもダムがない珍しい川であるネットがかけられているが塗装中?この橋は、静岡県内の4大河川(富士川・安倍川・大井川・天竜川)に架かる最初の橋として完成した。橋の建設には、失業した川越人夫を助ける雇用対策の側面もあったようです95年前の安倍川橋の工事風景大正11年3月に工事が着工され大正12年7月に安倍川橋が架けられた。この時の総工費は上記から当時の金額で、594,000円であった。工事期間は1年4か月と、今では考えられない工期である!大正から現在へと受け継がれる95才の安倍川橋。安倍川橋の歴史。1,明治4年(1871)6月、安倍川の川越人足が廃止になることに伴い、渡し船を配置する ことになったが、秋冬(10~2月)は川の水量が少ないため、この期間に使用するため の木製の仮橋を架設した。2,明治7年(1874)3月24日、本設の木橋が完成し「安水橋」と命名。全長509m。総工 費は当時の金額で7,000円。通行料は一人につき4厘。3,明治29年(1896)10月、県に移管され、通行量が無料となる。4,明治36年(1903)4月、架け替え(木橋)、総工費は当時の金額で14,900円。5,大正12年(1923)7月23日、鉄橋(トラス橋)に架け替え。「安倍川橋」に改称、総工 費は当時の金額で594,000円。6,昭和43年(1968)4月、歩道橋を新たに設置。7,平成2年(1990)3月、右岸側一部(2径間分)架け替え。富士川、大井川と同じような鋲止め大正12年に完成した現在の安倍川橋は、橋の長さ・桁の数で日本有数のボーストリングトラスト橋である一週間前(3/8)に渡った、富士川橋も同じような構造であった16:45安倍川橋から下流の新幹線3月の初め頃は水がなく渇水状態であったと。安倍川にはダムが一つもない為水量の変化が激しいのだと、このブログ作成時に知る16:47安倍川橋西、ここまでの歩行数は37,100歩16:51橋を越えたあたりは「千手の里 手越」史跡案内があったが、歩行数が4万歩近くなり時間も遅くなったので、JR安倍川駅へ向かうことに。ネットで調べると、1335年の南北朝時代に、足利尊氏と新田義貞が争った「手越河原の戦い」が起きた場所である16:52旧東海道(県道208号線)17:01国道一号線「手越原東交差点」の丸子宿方面同交差点から国道一号線の駿府方面。この交差点を渡り、JR安倍川駅へ向かう17:12東海道新幹線の「横井架道橋」を通って南側へ。東京駅から171km94m地点の標示17:13左はJR東海道本線、右側は東海道新幹線17:17ひたすら歩き、JR安倍川駅へ17:19ようやく安倍川駅に到着17:20JR安倍川駅に到着17:21改札は、一日乗り放題の「青春18きっぷ」で入場改札を入いりビールを買いたかったが、売店もなくあきらめてホームへ下りる藤枝方面、次回はこの方向から帰ってくるのだ!17:28発の熱海行きが入線今日はひたすらJR興津駅からJR安倍川駅まで歩いた。今日一日の歩行数は43,300歩約9時間の道中でした。帰りの乗車券は青春18きっぷを利用して、17:28発の熱海行きで帰路に着いた。 興津宿から丸子宿手前ーEND