おじん0523のヒロ散歩

2020/03/26(木)03:00

庄野宿~関宿 (1/21-その10)、野村一里塚から太岡寺畷へ

東海道53次(309)

旧東海道の野村一里塚から関宿へ進む。 1/21(火) 13:03 野村一里塚を振り返る 13:08 旧東海度を進むが、新築された民家も格子戸 大工の匠の技が継承されているのだと一安心する こちらの家も、一階の屋根裏があるのか 13:10 街道の左側に杭が 亀山藩大庄屋打田権四郎昌克旧宅跡 打田家は江戸時代初め頃近江国(滋賀県)から野尻村(布気町)に移住し、代々いくつも の庄屋をまとめる大庄屋を務めた。 現在地から東海道を挟んだ北側にその屋敷があった。打田権四郎昌克(1641~1758) は元禄15年(1702)亀山領に関する記録集『九々五集』を編さんした 大庄屋跡を振り返る、バス停は「野尻」 小雨の中旧東海道を進み、街道はこの先を右方向へ 13:12 街道角に東海道の案内板 毘沙門天 所在地:三重県亀山市布気町 毘沙門天前から街道を振り返る 旧東海道を進む、雨が心配だが 街道の左側に鬱蒼とした森があり、石鳥居 13:15 布氣皇舘太神社(ふけこうたつだい) 所在地:三重県亀山市布気町1663 拝殿までは百メートルほどありそうだ、既に弥次さんは参道の先に 布氣皇舘太神社 延喜式巻九「伊勢國鈴鹿郡十九座並小布氣神社」とあり、垂仁天皇18年の創始にかかる式内社 です。社名の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比古命が神田・ 神戸を献じたことに由来し、野尻、落針、太岡寺、山下、木下、小野、鷲山の七ヶ村を神戸郷 といいました。・・・・・・・・・・・・ 布氣皇舘太神社拝殿 南側から上ってきた鳥居 本殿横の境内社 布氣皇舘太神社本殿 北側にある旧東海道へ戻る 13:23 旧東海道を進み、右側に古民家があり庭に石があるが? 旧東海道を振り返る「神辺簡易郵便局」 所在地:三重県亀山市布気町162 13:25 旧東海道の坂を下る前の左側に『昼寝観音』 入口に「????翁頌徳碑」 昼寝観音堂の前から『地蔵堂』、旧東海道 昼寝観音から坂を下る 坂を下ったところに案内板 左側から下ってきた 13:32 旧東海道の案内板 県道565号線、JR関西本線を越える陸橋を登る 陸橋の下は、県道565号線、JR関西本線、関方面 前方の高架橋は関バイパス(国道1、25号線) 陸橋から降り、太岡寺畷(たいこうじなわて)へ向かう 前方の高架橋は、関バイパス(国道1、25号線)。右下は県道565号線の布気交差点 13:40 太岡寺畷は、鈴鹿川の北堤に約2km続く東海道一の長畷。春は桜が満開に咲き誇る 鈴鹿川の流れ。 鈴鹿川沿いの太岡寺畷を西へ進む 太岡寺畷(たいこうじなわて)のいわれ 畷(縄手)とは、まっすぐな長い道のことです。太岡寺畷は、東海道が約2キロにわたって鈴鹿川 沿いに築かれた堤の上を通り、東海道の畷道では随一の長さとされます。 松尾芭蕉の七部集の一つである『ひさご』に、門弟の野径が「から風の太岡寺縄手吹透し」と 詠んでいます。この太岡寺の場所については他に説がありますが、亀山においては古くから、 この地であるとの認識がありました。 かつては、「わしの想いは太岡寺 他に木(気)が無い松(待つ)ばかり」と謡われたほどの松並 木で、大田南畝(蜀上人)が享和元年(1801)に江戸から大阪までの旅を記した『改元紀行』にも、 「松の並木両行に立てり此間18町にて太岡寺縄手といふ」とあります。 なお、太岡寺の地名は、かつてこの地にあった大寺である「六門山四王院太岡寺」に由来する と伝えられます 伊勢ノ国 亀山まほろば街道 保存のための協賛企業一覧 太岡寺畷における桜の名所づくり 春になると桜の名所になる 太岡寺畷を振り返る 13:46 名阪国道(国道25号線)のカルバートを振り返る カルバート下には『東海道五十三次と歌川広重』の三重県下の七つの宿の絵が描かれていた。 掲示されているこの作品は「五十三次亀山浮世絵版画館」所蔵の原画を複製拡大しました 東海道五十三次『桑名』 東海道五十三次『四日市』 東海道五十三次『石薬師』 東海道五十三次『庄野』 東海道五十三次『亀山』 東海道五十三次『関』 東海道五十三次『坂之下』                                    庄野宿~関宿ー続く

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る