2020/03/26(木)03:00
庄野宿~関宿 (1/21-その10)、野村一里塚から太岡寺畷へ
旧東海道の野村一里塚から関宿へ進む。
1/21(火) 13:03
野村一里塚を振り返る
13:08
旧東海度を進むが、新築された民家も格子戸
大工の匠の技が継承されているのだと一安心する
こちらの家も、一階の屋根裏があるのか
13:10
街道の左側に杭が
亀山藩大庄屋打田権四郎昌克旧宅跡
打田家は江戸時代初め頃近江国(滋賀県)から野尻村(布気町)に移住し、代々いくつも
の庄屋をまとめる大庄屋を務めた。
現在地から東海道を挟んだ北側にその屋敷があった。打田権四郎昌克(1641~1758)
は元禄15年(1702)亀山領に関する記録集『九々五集』を編さんした
大庄屋跡を振り返る、バス停は「野尻」
小雨の中旧東海道を進み、街道はこの先を右方向へ
13:12
街道角に東海道の案内板
毘沙門天
所在地:三重県亀山市布気町
毘沙門天前から街道を振り返る
旧東海道を進む、雨が心配だが
街道の左側に鬱蒼とした森があり、石鳥居
13:15
布氣皇舘太神社(ふけこうたつだい)
所在地:三重県亀山市布気町1663
拝殿までは百メートルほどありそうだ、既に弥次さんは参道の先に
布氣皇舘太神社
延喜式巻九「伊勢國鈴鹿郡十九座並小布氣神社」とあり、垂仁天皇18年の創始にかかる式内社
です。社名の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比古命が神田・
神戸を献じたことに由来し、野尻、落針、太岡寺、山下、木下、小野、鷲山の七ヶ村を神戸郷
といいました。・・・・・・・・・・・・
布氣皇舘太神社拝殿
南側から上ってきた鳥居
本殿横の境内社
布氣皇舘太神社本殿
北側にある旧東海道へ戻る
13:23
旧東海道を進み、右側に古民家があり庭に石があるが?
旧東海道を振り返る「神辺簡易郵便局」
所在地:三重県亀山市布気町162
13:25
旧東海道の坂を下る前の左側に『昼寝観音』
入口に「????翁頌徳碑」
昼寝観音堂の前から『地蔵堂』、旧東海道
昼寝観音から坂を下る
坂を下ったところに案内板
左側から下ってきた
13:32
旧東海道の案内板
県道565号線、JR関西本線を越える陸橋を登る
陸橋の下は、県道565号線、JR関西本線、関方面
前方の高架橋は関バイパス(国道1、25号線)
陸橋から降り、太岡寺畷(たいこうじなわて)へ向かう
前方の高架橋は、関バイパス(国道1、25号線)。右下は県道565号線の布気交差点
13:40
太岡寺畷は、鈴鹿川の北堤に約2km続く東海道一の長畷。春は桜が満開に咲き誇る
鈴鹿川の流れ。
鈴鹿川沿いの太岡寺畷を西へ進む
太岡寺畷(たいこうじなわて)のいわれ
畷(縄手)とは、まっすぐな長い道のことです。太岡寺畷は、東海道が約2キロにわたって鈴鹿川
沿いに築かれた堤の上を通り、東海道の畷道では随一の長さとされます。
松尾芭蕉の七部集の一つである『ひさご』に、門弟の野径が「から風の太岡寺縄手吹透し」と
詠んでいます。この太岡寺の場所については他に説がありますが、亀山においては古くから、
この地であるとの認識がありました。
かつては、「わしの想いは太岡寺 他に木(気)が無い松(待つ)ばかり」と謡われたほどの松並
木で、大田南畝(蜀上人)が享和元年(1801)に江戸から大阪までの旅を記した『改元紀行』にも、
「松の並木両行に立てり此間18町にて太岡寺縄手といふ」とあります。
なお、太岡寺の地名は、かつてこの地にあった大寺である「六門山四王院太岡寺」に由来する
と伝えられます
伊勢ノ国 亀山まほろば街道
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太岡寺畷における桜の名所づくり
春になると桜の名所になる
太岡寺畷を振り返る
13:46
名阪国道(国道25号線)のカルバートを振り返る
カルバート下には『東海道五十三次と歌川広重』の三重県下の七つの宿の絵が描かれていた。
掲示されているこの作品は「五十三次亀山浮世絵版画館」所蔵の原画を複製拡大しました
東海道五十三次『桑名』
東海道五十三次『四日市』
東海道五十三次『石薬師』
東海道五十三次『庄野』
東海道五十三次『亀山』
東海道五十三次『関』
東海道五十三次『坂之下』
庄野宿~関宿ー続く