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おじん0523のヒロ散歩

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2021.12.18
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カテゴリ:続 日本100名城
西南戦争の激戦地田原坂公園を散策。
144年前にこの地で激戦があったことを知ると身近な感がする、特に官軍は全国各地から若者が
徴収されて戦死、茅ヶ崎にある三島大神にも西南戦争で亡くなった人の慰霊之碑があった。

11月14日(日) 14:56
田原坂公園の高台に聳える「田原坂の大楠」と「美少年の像」


美少年の像


台座には、
この美少年像は西南の役田原坂の戦いで散った若者たちすべての象徴である。
                      平成二年十月建立      植木町


正面には、
「雨は降る降る じんばはぬれる こすにこされぬ 田原坂
    右手に血刀 左手に手綱 馬上ゆたかな 美少年」と


馬上の美少年像、
これが誰なのかは諸説ありますが、田原坂で戦ったすべての少年兵の象徴だというのが通説だと
いうことです。


休憩所・売店があったが、この日は閉店中。
南西方向に聳える三ノ岳、下の窪地には官軍が押し寄せたのであろう。


九州自然歩道(田原坂・二の岳コース)  田原坂の戦跡
西南の役最大の古戦場であるこの附近は、明治10年3月4日から17昼夜に及ぶ激戦地で、当時は
昼尚暗き森林の中の主要道路で、大砲や弾薬を運ぶには外に道はなく、麓から頂上に達する落差
60mの切通した田原坂(一の坂、二の坂、三の坂)には、官軍、薩軍双方が砦を築き一進一退の大
攻防戦が展開された。結果は薩軍が敗退したが、この間7日間はみぞれ混じりの雨又雨の連続で
あったと伝えられる。
                             環境庁 熊本県

最寄り地図


西南の役の生き証人「田原坂の大楠」の下に、
金峰(きんぼ)山県立公園  田原坂

田原坂古戦場
わが国最後の内乱、西南戦争の古戦場です。
熊本城篭城軍を救援しようと南下する政府軍とこれを阻止しようとする薩軍が死闘を演じたと
ろころで、当時の田原坂は熊本市へ通ずる唯一の拠点であり、そのため明治10年(1877)3月4
日から17昼夜にわたり、白兵戦が繰り広げられたのであります。
死傷者4000人余を出したこの丘も、現在は公園化され、記念碑等が建てられています。

この辺りの紅葉を追う


色づいた木もあったが


少々早い


この大楠の樹齢は?


田原坂崇烈碑(たばるざかすうれつひ)


田原坂崇烈碑
碑文には当時の社会情勢や戦いの推移、田原坂の激戦の様子などがまとめられています。とくに、
西南の役の激戦のなかで、死傷者が四千余人にものぼった田原坂の戦いの様な激しい戦いは他に
はなかったこと。またもし薩軍が南関を破り北上したなら、各地の政府に不満の者が隙を見て立
ち上がり、禍いは測り知れぬものになっただろう。そうならなかったのは田原坂の戦いに勝った
からであること。  以上、田原坂激戦と勝利の意義が官軍の立場から述べられています。
 〇 碑文      ー 略 ー
 〇 訳文      ー 略 ー
なお、この崇烈碑建立の経過について明治十三年九月十三日五野保萬日記によると鹿本郡植木町
大字豊岡(田原坂)の山中において、過る十年に、鹿児島の西郷隆盛が事変を起こしたことや、
その経過等について大石記すこととなった。
ところでこの石は、~ 中略 ~ 八代港に着港した。この石は白く、石幅は約1.20m、長さ約
4.50m。重量約3,600kg これを運搬することは大変な作業であった。車に乗せ牛十五頭、作
業人員三十名(石工、大工、人夫)が各々作業をして六十日を要し、漸く田原坂上に到着した。
来年の三月迄に建立完成の予定である。碑には当時の戦闘の様子を詳細に記載し、将来になっ
てもその当時の状況が判るよう、政府から建立されるものである。国もそうであるように、自
分も又碑石建立の経路を、後世の為に書き遺しておく。 とある。
         平成五年三月    植木町教育委員会

田原坂崇烈碑の前から、田原坂

西南戦争の本営跡     玉名市玉名
1877年(明治10年)の西南戦争の時、高瀬に進出した官軍(政府軍)が薩摩軍を追って、さらに田
原坂方面に進撃するまで、官軍野津鎮雄(少将)司令長官ら首脳が作戦会議など開いた場所です。
熊本城は薩摩軍の大軍に囲まれ、一刻も早く応援軍を待つより方法はありませんでした。熊本
軍団の伍長谷村計介は、農夫に変装し城を脱出しました。再三、捕えられますが、運よく脱出に
成功します。
辛い苦労を重ねて高瀬の本営付近に達することができましたが、心身ともにやつれた谷村の容姿
は、忍びの者として官軍に捕えられます。野津司令長官の前で、熊本軍団の谷司令長官の言葉と
暗号で熊本城中の悲惨な状況を伝えました。野津司令長官はその働きを誉め讃えたそうです。
この谷村伍長の話は、戦前は修身(道徳)の教材となっていました。
                        玉杵名の里づくり委員会

写真で田原坂を説明


現在の「田原坂」。
前方の道は田原坂の、三の坂辺り。


ズームアップ、
山の斜面には、多くのミカンの木が植えられている。


田原坂の攻防戦詳報
明治維新は明治十年西南役(日本史最終最大の骨肉相喰む内乱)の終結によって確立しました。
その西南役を決定づけたのが明治十年三月四日に始まり三月二十日迄十七昼夜にわたるその
戦役中、最も悲惨激烈を極めた田原坂の戦闘であります。
・・・・・ 中略 ・・・・・
官軍から発射された弾丸は一日平均三十二万発と云われております。かりに明治三十七、八年
日露戦争旅順攻撃当時の一日平均発射弾数三十万発でありますがこれに加えこれに負けじと打
ちまくった薩軍の弾数を入れますと如何に激烈を極めたか窺うに足ると思います。
・・・・・ 後略 ・・・・・

官軍、薩軍の陣地が記載されている。


田原坂崇烈碑


石碑には、
鹿児島県は西海に於いて地最も広く、人最も勇なり。而して西郷隆盛名望世を蓋ふ。海内の人士
其の進退を候し、以て安危と為すに至る。
明治十年二月隆盛反し熊本城を囲む。天皇震怒、兵を発して之れを討つ。熾仁総督の責に任ず。
陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純義参軍たり。賊は兵を分ち、植木山鹿の両道を扼し、進んで
高瀬に入る。二十七日我軍高瀬を撃ちて取る。越えて四日木葉を抜く。賊退いて田原坂の険に拠
。而して熊本の囲み益々密にして援路皆絶つ。夫れ田原の地たる両崖壁立経路崎嶇たり。賊悉
く精鋭にして堅塁を築き、咆哮出没虎狼の如く有り。要害形を異にし、攻守勢をにす。而して
我が軍殊に死戦昼夜をすてず十有七日遂に之れを抜く。死傷四千余人、この役たるや鏖戦前後数
百、而して未だ田原坂の如き劇あらざるなり。もこの坂にして抜けず、賊をして南関を破り北
せしめば、即ち四方不逞の徒必ず隙に乗じて起ち、禍ひ測るべからず。而して其れを此に至ら使
めず、遂に速やかに討滅に致らしむるものは実に此の一捷る。嗚呼死者の功大なり。而して
見るに及ばず、痛ましい哉。因って碑を阪上に建て、似て之れを記す。忠烈勧奨する所
以なり。
   明治十三年十月 
      陸軍大将二品大勲位 熾仁親王撰文篆額

      陸軍省六等出仕従六位勲五等秋月新太郎書


田原坂崇烈碑の裏の北側には句碑塔が建ち整備されている。
志賀青研の句碑で、平成8年(1996年)6月、建立。
また句碑には、【たゝかひの あとゝし 花のちるばかり】と。

山の斜面に石碑


蓮田善明(はすだぜんめい)先生文学碑
碑には、「ふるさとの 駅におりたち 眺めたる かの薄紅葉 忘らえなくに」
        薄い紅葉 とは 官軍と薩軍の流した血を 意味するのだろうか


裏面には、
蓮田善明君は明治丗七年七月廿八日父慈善母ふじの三男として植木町に生れ○○○○広島高師広
島文理大に学んで国文学を専攻職を岐阜二中諏訪中台中商業成城高校に奉じまた同志と計って〇
誌文芸文化を公刊した雨来君は民族詩・・・・・・・後略
       昭和三十五年八月
三島由紀夫と一緒に"文藝文化"を創刊したが 勃発した太平洋戦争に召集され 南方戦線へ。
敗戦時は中隊長でマレーのジョホールバルで迎えたが 隊の帰還の準備をする連隊長に怒り射殺
するとともに自分もその場でピストル自殺して果てた。

勇 知之文学碑
碑には、「そこにはいつも故郷の山の力があった」。


裏面には、
勇知之 昭和○○年一月植木町に生れる。○○○○○○○○・・・・・・・後略
       平成十年六月 建立


北の斜面を下る


田原坂パノラマガーデン

右上(南方面)に「熊本城」、左下に「田原坂」


大きなジオラマが置かれていた。
方位は、上側:北、手前:南、右側:東、左側:西。
ジオラマの山側より北側方向を見る、右側の山並みの先が「田原坂」になる。


田原坂の戦い
2月28日以降、政府軍が後続部隊の到着を待つ間に薩軍は田原坂から東側の台地に無数の壕を掘
り、強力な陣地を築いていた。
激戦は3月4日午前6時雨をついての政府軍第1次総攻撃に始まった。
その後3月20日第6次総攻撃で突破するまで、押しつ押されつの激戦が、17日間続けられた。
政府軍の1日平均消費弾丸は32万発、旧式銃で雨のため発射能力の落ちた薩軍は抜刀して対抗し
た。田原坂の戦いで、戦死したり負傷したりした人は両軍あわせて約5,000人にもなる。

吉次峠
田原坂の西南側、三の岳(684m)から半高山 ー 横平山と、屏風をたてて並べた様に尾根が張り
出している。吉次峠は三の岳と半高山の間にあり、玉名平野 ー 原倉 ー 吉次 ー 木留へと間道が
続いていた。この峠の争奪戦も田原坂に次いで激しかった。
政府軍は3月4日から攻撃を開始し特に4日の攻防は激烈で午前中、政府軍は半高山麓から尾根線
附近まで進撃した。これに対し、薩軍は午後になり逆襲に転じ政府軍は敗走した。
この戦いで、薩軍の篠原国幹が戦死している。この日以降、政府軍は「地獄峠」と呼んで恐れ、
戦闘は4月1日まで続いた。

3月20日 田原坂突破時の両軍


田原坂17日間の戦い
3月4日 雨  政府軍、本軍は田原坂を攻撃しようとした失敗。右翼隊二俣に進出占領。
     5日 雨  局部的に薩軍の攻撃。政府軍、木葉の本営で6日よりの攻撃部署について協議。
    ・・・・・中略・・・・・
 20日 雨  二俣の政府軍は午前5時守戦を出発し、午前6時諸隊一斉に攻撃を開始する。
       右翼隊は薩軍(守備高鍋隊)の火点を占領。一部で田原坂を背面攻撃し、午前10時
       頃占領。先峰の隊は午前11時頃植木に進出する。


防 塁


田原坂(一の坂・二の坂・三坂)
丘の麓の境木部落と田原坂上まで標高差80m、距離にして1,500mで、当時としては道幅も広
く鈍角に屈曲した切り通しの坂道である。この切り通しの凹道(堀切道)と起伏とは、加藤清正
の熊本城築城当時、戦術上の意図でわざと作ったものであるという。
高瀬(玉名)から熊本へ行くにはいくつかの道があったが、田原坂だけが砲隊を進めることので
きるただ一つの道で、他の山道は道幅、地形等からして砲隊の前進を拒絶していた。このため
薩軍はこの田原坂に防御力を集結した。官軍もこの坂が堅固な要塞と化していることを知りな
がら他の道を迂回しようとせず正面から堅陣への激突を繰り返した。

左:西南戦争当時の田原坂、右:現在の田原坂


薩摩軍は左側の山の尾根に陣取る。
現在地は、黄色の丸


開戦当時、山の上に薩軍、窪地に官軍


15:10
官軍はこの窪地から田原坂へと進撃。
平地に豊岡口官軍攻撃隊



                                      ー 続く ー





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最終更新日  2021.12.18 03:00:06
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