日々…!

2012/11/23(金)21:17

絶対と相対

思う(223)

少し前からコンビニで気になっていたものの、躊躇していた商品。 あまおう大福ミルク。 買ってみました。 なんだろう、この微妙な青臭さのような味は、あずきのせい? 普通のイチゴミルクのほうが美味しいと思いました。 「イチゴミルクのほうが美味しい」 比較してそう思った。 これは「相対」です。 他と比べての感想です。 では「絶対」ならどうか。 特別まずいわけではないけれど、また買おうとも思わない。 という答えは「絶対」なのか? んー。あんまり良いたとえではなかったけど。 最近、「絶対」と「相対」についてよく考えています。 人はたいてい、「相対」で生きていると思います。 比較するものがないと、価値がわからないのかもしれません。 暗いを知っていなければ、明るいがわからない。 不幸を知らなければ、幸福もわからない。 冷たいを知れば、温かいを知ることができる。 片方だけでももちろん分かるのですが、 両方を知ればさらにより分かる、ということです。 さて、「相対」ではなく「絶対」を知ることができるのは、 例えば時計。 感じる時間は、行動によって違うように思えます。 はまっているとあっという間に過ぎますが、暇だと遅かったり。それが相対。 でも、時計の示す時間は絶対。 温度。 体感温度は相対、温度計の温度は絶対です。 つまり、はっきりとした絶対値を示すものがあれば良い。 でも人生にそういうものはない。 なら、自分が満足できればそれでいいじゃないか。 という答えが返ってきそうですが、その「満足」というのが、 「不満」と比較しての「満足」だと相対です。 それなら、「相対としての満足」でいいじゃないか。 ええ、そうですね。そうなのかもしれませんね。 何とも比較することをせずに「幸せだ、満足だ」と思うのと、 例えば昔と比較して「今は幸せだ、今は満足だ」と思うのは、 どうなんだろうとか思ったりしてるんですよね。 別に、どっちに優劣をつけようとしているんじゃないんですけど、 「老子」の言葉でね、 世の人は相対(他との比較)で物事を判断するが、 聖人は他と比較することはない、と。 まぁだから「聖人」なんでしょうけどね。 自分はそれほど比較してないよ、と思っていても、 無意識で比較してるんだな、と思ってしまったんですよね、イチゴミルクで(笑 そして給料日のたびに、なんでうちの会社はこんなに給料が安いんだろう、 と思ってしまうんですよね。 仕事があるだけで有難い、給料を(高くはないけど)もらえるだけ有難い、 という感謝の気持ちを忘れてしまっているのですよ。 イチゴミルクから話があっちこっち飛んでますが… ここまで書いて、今、浮かんだ結論。 感謝の気持ちを常に持っていれば、比較する必要はない。 うんうん、そうね。そうなんだわね。 よく考えたら違うかもしれんけど、今はそういうことにしておこう。 ほぼ思考の垂れ流し状態で長くなりました。

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