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ファピーの風の花

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2006.12.03
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テーマ:韓国!(16994)
カテゴリ:カテゴリ未分類
BoAが、安重根義士記念事業会に5000万ウォン(2005年当時:日本円の500万円)寄付して、

「映画『多黙安重根』

「BoA」さんらが、ソウル劇場で、試写会に先立ち、安重根義士記念事業会に5000万ウォン(2005年当時:日本円の500万円)寄付して、「映画『多黙 安重根』を観て少しでも愛国心を持ってくれたらと思う」。

 その記事を引用して、日本の日刊スポーツが「歌手のBoA(18歳)が、伊藤博文を暗殺した安重根を題材とした韓国映画『多黙安重根』のプロモーション活動を行う」という記事にしました。
 日刊スポーツの記事が、「安重根義士に対して”暗殺犯”という否定的イメージの言葉を使って報道したのは、BoAの今回の映画PRと巨額の寄付が日本では好ましく思われていないということを示している」 と「朝鮮新報」が報じていました。 若い人が、口コミで語る内容は重いと思います。次世代、次世代に語り継がれる友好の証を記したいからでしょう。当時のホームページをみれば、韓国の新聞は日本語でどんどんPR活動をしていました。

この事件をアカデミックに研鑽するのは歴史学者に任せて、市民として、その背景にあった時代を少しでも学べたらと思っています。
過ちは素直に謝り、負のエネルギーを今後の友好に活かすことと思っています。(自虐歴史や謝罪を求めてるのではありません。)

こんな記事がありました。筆者は日本国際問題研究所のロバート・ドゥジャリクさんです。


「ドイツは半世紀以上もの間、謝罪し、賠償金を支払い、そして近隣諸国を脅かすような戦争にかかわる政府の活動を禁止し統けている。
 この結果、より強大になり、ナチに殺害された国民の遺骨が無数に埋まるポーランドや、ガス室で死んだ親類が数多くいるイスラエルでも高い評価を受ける国となった。
 レバノンでイスラエル人が誘拐された時、イスラエルはドイツに解放交渉を依頼した。ナチが残虐の限りを尽くした旧ユーゴスラビアでもドイツ軍兵土は歓迎され、ドイツの外交官は米国における自国の国益に役に立つ在米ユダヤ人組織との建設的関係を築き上げている。
 日本も合理的な分析に基づいた政策をとれば、アジア、そして世界における地位を強化することができるだろう」「朝日新聞」2005年7月30日


下にあるのは、安重根が獄中で書いた「東洋平和論」の記述をです。それを引用し、嫌韓論者が扶桑社の教科書にある記事を引用し、「安 重根でさえも当初は、日本の日露戦争勝利を絶賛している」とこの部分だけを利用し、おかしな論陣を展開しています。

東洋平和論より
日露の開戦が黄白両人種の競争であろう。これまでの我が日本に対して仇敵の心情が消えさり、一大政党化し、これが情の問題としてなりたちうるものだ・・・中略・・・
爽快なる、数百年来、悪行を何の罪悪感も無く行ってきた白人たちの尖兵が、鼓を一打しただけで大破してしまったのである。この闘いの勝利は、千古に希な事業として、万国で記念すべき功績であった”部分ですね。 だから、この時、韓・清の両国の有志は、図らずも同じように、自分たちが勝ったように喜んだ」・・・中略・・・
しかし、第2の義兵が起きた後も、伊藤博文の施政方針が変更されなかった。そのため当時の皇帝の密使で イ・サンソルが ヘイグの平和会議に行って訴えるのを妨害したのは日本である。5カ条の条約は伊藤が兵力を持って締結したのだから万国公法によって処分してくれと言った。」


安重根は裁判で次のように述べています。

「韓国の独立戦争の一部分であり、また私が日本の法廷に立つことになったのは、戦争(義兵闘争のこと)に敗北し捕虜になったからだ。私は個人の資格でそのことをやったのではなく、韓国義軍の参謀中将の資格で祖国の独立と東洋平和のためにやったのだ。したがって万国公法によって処理することを要請する。」
 
当時の国際法上でも安重根はまずハルピンを管轄していたロシアで裁かれるべきであり、最初から日本の官憲に引き渡されたこと自体がおかしなことです。(色んな法的な問題や、国際条約があったのは理解しての話しです)


「私が天国に行ってもまた国権の回復のために尽くすつもりだ。君たちは帰って同胞に、皆が各々国のために責任を負い、国民としての義務を果たし、心をひとつにし、力を合わせて功労を立て業を遂げるようにと伝えてくれ。大韓独立の声が天国に聞こえてきたら私はきっと踊りながら万歳を叫ぶだろう。」と言ったそうです。


「義兵はソウル駐在各国領事館に、義兵を国際法上の交戦団体として承認 してくれることを要求する書信を発送して、自ら独立軍であることを主張しています。そして洪範図と李範充が指揮する間島と沿海州一帯の義兵部隊が国内侵攻作戦を計画し、義兵として活躍してたとされています。

一部に、「韓国併合の反対者であった伊藤博文の暗殺は、逆に韓国併合を実現させた」として、安重根をあまり評価しない意見もあります。しかし、実際は、明治42年6月、韓国統監の伊藤博文を枢密院議長に祭り上げます。そして、7月には、閣議は「韓国併合を断行する方針」を決定しています。伊藤博文暗殺の3ヶ月前です。

安重根は300人の義兵を率いて、「参謀中将」の肩書きで、1908年6月、豆満江を渡り、昼は伏して夜に行軍して咸境北道に到着し、日本兵と数回衝突。その際、日本兵数人を捕虜としたが、釈放します。
これを知った義兵将校の間から不満の声があがり、「苦労しながら生け捕りにした者を釈放するのであれば、我らは何のために戦っているのかわからないではないか」と難詰したのに対して、安重根はこう語っています。


「賊兵がこのような暴行を働くことは神も人も共に許さぬところのものである。ところが、いま我等も同じように野蛮な行動を行ってもよいのであろうか。いわんや日本4千万の人口をことごとく滅ぼして、しかるのち国権を回復するという計をはかろうとするのか。彼を知り己を知れば百戦百勝す、現在は我等が劣勢で、彼らは優勢であって、不利な戦闘をすべきではない。ひとえに忠行義挙を以てするのみでなく伊藤博文の暴略を攻撃して世界に広布し、列強の同感を得て、国権を回復すべきである。これがいわゆる弱少な力でよく強大な敵を除き、仁を以て悪に敵するの法である」


岩波書店の『近代日本史総合年表』

日露戦争後の国際関係(2)(伊藤博文暗殺、日韓併合、朝鮮総督府、関東軍)
1  1908(明治41)年7月、@13桂太郎内閣が誕生しました。
 1909(明治42)年6月14日、韓国統監の伊藤博文を枢密院議長に、副統監の曾禰荒助を統監に任命しました。
 7月6日、閣議は、適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱を決定しました。その内容は、次の通りです。
(1)憲兵・警察官を増派する。
(2)日本人官吏の権限を拡張する。
 7月26日、韓国中央銀行に関する日韓覚書に調印しました。その内容は、「韓国政府の中央金融機関としての韓国銀行の設置を承認する」というものです。
 10月18日、韓国における犯罪即決令を公布しました。その内容は、「警察署長・分署長に、拘留・科料以下の罪につき即決権を与える」というものです。
 10月26日、ロシア外相と会談のためハルビン駅に到着した伊藤博文(69歳)は韓国人の安重根(31歳)に射殺されました。これを伊藤博文暗殺事件といいまます。
 12月22日、韓国首相の李完用は、刺客に襲われました。
2  1910(明治43)年2月14日、旅順地方法院は、伊藤博文暗殺犯人として、韓国人の安重根に死刑を宣告しました。その後、3月26日に安重根の死刑が執行されました。時に32歳でした。
 2月28日、小村寿太郎外相は、在外使臣に対し、韓国併合方針および施設大綱を通報しました。
 5月30日、陸軍大臣の寺内正毅は、韓国統監との兼務を任命されました。
 6月3日、閣議は、併合後の韓国に対する施政方針を決定しました。その内容は、次の通りです。
(1)憲法は施行しない。
(2)いっさいの政務を統括する総督を設置する。
 7月4日、第二回日露協約に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)満州の現状維持と鉄道に関しては相互に協力する。
(2)秘密協約で第一回協約の利権分界線をもって特殊利益地域を分ける。
3  8月16日、寺内正毅統監は、韓国首相の李完用に日韓併合に関する覚書を交付しました。
 8月22日、韓国併合に関する日韓条約に調印しました。これを日韓併合条約といいます。
 8月24日、在外使臣は、各国政府に韓国併合条約ならびに宣言を通告しました。
 8月29日、韓国王室を皇族の礼をもって遇する詔書を下しました。
 8月29日、韓国の国号を朝鮮と改称し、漢城を改称した京城に、朝鮮総督府を設置しました。当分の間、統監府も併置しました。
 8月29日、朝鮮に施行すべき法令に関する件を公布しました。その内容は、「法律を要する事項を総督の命令で規定することを認める」というものです。
4  9月12日、韓国統監府は、朝鮮の全政治結社を解散させる方針により、一進会に解散を命じ、解散費15万円を支給しました。
 9月30日、「総督は陸海軍大将とし他に政務統監を設置する」という朝鮮総督府官制を公布しました。
 9月30日、「総督の諮問機関で、議長は政務統監」という朝鮮中枢院官制を公布しました。
 9月30日、朝鮮総督府臨時土地調査局官制を公布しました。その内容・結果は、次の通りです。
(1)朝鮮における土地調査事業を本格的に開始する。
(2)その結果、全朝鮮に土地私有制が確立しました。
 10月1日、三代目の韓国統監である寺内正毅を初代朝鮮総督に任命しました。寺内正毅は陸軍大臣も兼任します。
 12月29日、朝鮮総督府は、会社令を制定しました。その内容・結果は、次の通りです。
(1)朝鮮における会社設立には、朝鮮総督府の許可制とする。
(2)その結果、朝鮮人が企業を起こすには、不利となりました。
5  1911(明治44)年4月17日、朝鮮総督府は、土地収用令を制定しました。その内容・結果は、次の通りです。
(1)朝鮮総督府が実施した土地所有権の限定作業を行う。
(2)所属不明の土地を国有地として没収し、日本人の地主・土地会社へ払い下げる。
(3)その結果、朝鮮人農民は土地を失い、没落していきました。
 6月、朝鮮総督暗殺計画が発覚し、アメリカ人宣教師との関係が問題となりました。これを宣川事件といいます。








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Last updated  2006.12.04 09:34:34
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