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【「あれ?世の中に自分って必要?」って思うよね!】
昭和の昔は、世の中にアイドル,ヒーロー,スターがいても、あとは「その他大勢」だった。 たくさんのモブ,その他,十把一絡げ,名もなき庶民がいて、まぁ「世の中の凄いひと」と「その他」な分類だった。脇役にも居場所があって、スポットライトが照らさない裏方がたくさんいるけれど、それは見えなかった。 いまは、すごく見える、見えすぎてる。 世の中には、「自分よりちょい上」な上位互換が溢れてる。 自分とほぼ同規格,同性能なんだけど、ちょっと身長が高い。 自分とほとんど能力は変わらないけれど、ちょっとだけ生きることに前向き。 自分と体格や学習能力や運動性能は同じだけど、ちょっとだけ自分よりも周囲に気配りができる。 自分よりも学習能力がちょっと劣ってるけれど、性格的に周囲に可愛がられてて、しかも性格が良い。 そんな人物がいることが見えてしまう。 そうすると、「自分って必要?」ってなるじゃん。 いや、親とか家族とか周囲の人物にとってはかけがえのない人間ではあるにしても、世の中としては「自分の上位互換」としての個体がたくさんいるわけじゃん。いわゆる「お前の代わりなんかいくらでもいるぞ」ってやつで、世の中としては「誰もお前に生きていてくれなんてお願いしてない」ってやつよ。脳死からの臓器移植にしても、「互換品」なわけじゃん。代わりがいるんだよね。ひとが1人消えても、世界は変わらないし、世の中は変わらない。 そりゃ、スターやヒーローは「かけがえのない価値がある」よ。 昭和の頃は、「そうは言っても、みんなそんなもんだよ」「みんなが長嶋茂雄にはなれないし、力道山にもなれない。それでも、馬場も猪木も頑張ってる。北の湖に勝てない貴乃花も輝いてる」「金メダルを取れなくても、ヒーローだ」「努力する姿が美しい」って思えた。 長嶋や張本になれなくても、柴田になれるかもしれない。 巨人軍だけがプロじゃない。 たくさんの十把一絡げが世の中を回してる。 そうやって、「自分の価値」「自分だって世の中に役立ってる」「世間ってぇのは、みんなのことだ」って生きてきた。 でもさ、いまは「自分よりちょっとだけ輝いてる」のが見えちゃうじゃん。親ガチャだの努力する才能だのって嘆くのは、自分の上位互換が溢れてることが、まるで自分を責めているように~自分に価値が無いように思えるからだよ。 そうすっと、「オーバードーズできちゃう自分」くらいしか自分の価値が付加できない。 自分が、マトモに頑張って、ちょっとだけ上に昇って、前に進んでいっても、そこには常に自分の上位互換がいるわけですよ。自分と同じくらい頑張って、自分と同じくらいの能力をもって、自分と同じようにみえるけれど、「目が二重」「身長が5高い」「気配りが上手」「会話がうまい」「胸が大きい」「腰回りが細い」「肌がきれい」「声が良い」指がキレイ」とかな上位互換な人間がいる。 「じゃあ、自分って何?」みたいになるじゃん。 じゃあ、他のひとができないような~手を出さないような個性付けが欲しくなるじゃん。酒とかタバコじゃダメなのは、そんなの誰でも後付けできるモノだからでさ。世の中に溢れてる自分よりもちょっとだけ〇〇ができる同じような個体との差別化をしようとしたら、オーバードーズしちゃうのかねぇ…? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.11.26 00:15:11
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