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テーマ:マイノリティー生活(66)
カテゴリ:考えちゃうこと
「国際交流」 「国際理解」 「国際」何たら と言うものに非常に強い猜疑心を持っている。 その根は、ある「国際学校」に行った時に由来する。 ことあるごとに「日本人に見えないね」と言われて育った私は 17の夏、(インターナショナルスクールではない) 「各国の若者を集めた、しっかり根付く国際交流」を目指した 「国際学校」に行けばそんな言動から逃れ、 自由に自分でいられるパラダイスに行けるものだと思っていた。 結果は、大間違いだった。 何かと言うと 私の日本人性は、 日本人にも、日本人でない人―特に他のアジア人―にも疑われた。 一人ひとりが 本国のミニ大使である場において 私はどこをも代表しない(させてもらえない)存在だった。 自然に個人になれるなんてうらやましい、と思われるかもしれない。 それもひとつの見方かもしれないが、 「自国」を持てない、 「自国」を持つ選択肢を最初から与えられてない、 と言うのが私の実感だ。 本当に国「際」の産物の人は 「国際的でうらやましい」と言われるけれども それ以外の場所に身の置きようがない。 うらやましいもへったくれもない。 「ハーフなんてかっこいい!!」 なんて能天気なことを言ってる人には 自分がそうだと実感して言っていること(=「日本人です」)を 物心つくころから 赤の他人に否定されて育ってごらん、 と言いたくなる。 「かっこいい」なんて言うのだったら ちゃんと私の今いるところに 私の居場所を作ってから言ってください。 私をどこかに追い出して それから遠くから見つめて 「かっこいい!!」はあなたの自己満足です。 やめてください。 「ハーフ」なんて国も地域もないから。 「どこの人ですか」って聞くのだったら 「ハーフです」って答えを期待するのはやめましょうよ。 だから「国際」的な場は嫌いです。 自分の属する「国」の典型を体現していないと、みんな納得しないから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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