2008/06/23(月)22:35
ウラルトゥの歴史
日本の天皇家は、偉大なるウラルトゥ王朝の末裔であり、後に扶余王となって満州の地に君臨しソロモンとシバの女王の子、メネリケの子孫である大物主一族と同盟して邪馬壱国を建てさらに百済国を建てました。【ウラルトゥの歴史】 カッシュ人がウラルトゥ地方に侵入する前から、この地には原ヒッタイト族、カルトヴェリ族ハヤシャ族などが住んでいました。フツリ人はエジプトやカナンから、この地に拡散してきたのですが、ヒッタイト資料は、この地方を【フツリ人の国】と記しています。フツリ人は、BC2000年紀半ばには、ミタンニ王国に従事し、ヒッタイト王シュビルリウマシュ以降はヒッタイト王国に従属していました。ヒッタイト崩壊後、いくつかの少国家がヒッタイトの伝統を継ぎ、カルケミシュはハッティ国オロンテスはハッテナ国となりました。そこに、ヒッタイトのムシュ族やカスカイ族などが入ってきたのです。このようにウラルトゥは、当初からミタンニやヒッタイトのフツリ人、カッシュ人チュルク人などからなる、いくつかの部族の連合体でありました。ここで、ウラルトゥの住民に、カッシュ人があったことが書かれていますが、カッシュ人は月氏になりまたインドに移ってクル国のなかにも混在しました。従ってウラルトゥとクル国は同族であり従属した同盟者といえるでしょう。約3000年前に、フェニキア人(女)とヒッタイト人(男)の混血によって、ウラルトゥ人が生まれました。この時、ウラルトゥ人によって小アジア(トルコ)のヴァン湖周辺に建国されたのがウラルトゥ王国であり、その初代王となったのが、アマテラス(男神)です。BC1013年、イシンの末期に、フェニキア人のマカン(海の国)がウラルトゥと共にアッシリアと戦いました。その結果、アッシリア王の攻撃でイシン(殷の本国)が滅んだため、番韓のヤードゥは海に浮かんでインドに逃れ、ウラルトゥは、北方ヴァン湖に退き、シャキイ族は、南下して後の穢国になりました。この時、カルデア人は、アッシリア軍に捕らえられていたイシン王族の子叔箕しゃ(ししゅきしゃ)を奪い返し、遥々航海して渤海湾に至り、遼東半島に上陸してその地に国を建て、【奇子朝鮮】と名付けました。BC781年、ウラルトゥ王アルギシュティシュ1世=ウガヤ王朝初代・衰子餘よ(すいしよ)または申侯が、アッシリア王を破ります。同じ頃、ドーソン(銅鼓)文化の拡散始まります。インド太陽王朝のマラ族と月神王朝の連合軍が銅鼓文化を持ってジャワ島、バリー島セレベス島などに入りました。日本の神代史によく出てくる高天原(たかまがはら)とは、BC597年以降、ユダヤ人がイスラエルから連れ去られ、アッシリア帝国に幽閉されていたバビロンの古代地名です。それは、【タガーマ地方のハラン】のことで、イラク北部からアルメニアにかけての一帯の地名であり、この高天原からユダヤ人10部族は世界中に拡散しました。アッシリアを滅ぼしてから300余年を経てBC6、5世紀になるとウラルトゥは二分して匈奴(キンメリ)と連合するものと、ペルシア(秦)に従属するものとになりました。秦は、この後、益々強くなり燕(フェニキア)も強化されたので、奇子朝鮮は、ついに満州に移って大凌河を国境とし河西の地を譲って東遷しました。