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2008/05/24
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カテゴリ:歴史

BC585年、ウラルトゥ王国崩壊。以後は、シルクロードを流浪するウガヤ王朝となりました。

ウガヤ10代王アルカは、一族を率いてキンメリ族(匈奴・フン族)と同盟し、シルクロードを経て

華北に入ると山西省に趙国を建てました。扶余人=百済人は、フェニキア人とヒッタイト人の

混血人種ウラルトゥ人がオリエントから東遷して華北に建てた趙国人の直系末裔であり

その流れは、日本の南朝系の今上天皇家にまでつながっています。 

BC194年、ウガヤ43代・慕漱離(ぼそり)が北扶余前期王朝としての王として在位。

BC128年、マラ族の穢王アグリナロシが鮮卑族に襲われて自刃し、王子イサシが逃れて

北扶余前期王朝に合流し、客人となります。

同じ頃、衛満によって国を追われた箕子最後の準王は、逃れて馬韓に攻め込み今の平壌に辰王朝

建てました。この時、箕子準王と行動を共にしたのが秦の亡命者【失われたユダヤ10部族】

馬韓の分国を建て、秦韓と称しました。 

BC86年、客人、穢族が強くなり、北扶余後期王朝を建てたため、ウガヤ46代・解夫婁(カイフル)

が追われて北沃沮・エゾの地へ移動し、東扶余を建て、その王として在位しました。

この時、箕子朝鮮と同行していた猿田彦(ラビの世襲名)らのユダヤ北朝系ガド族は

本隊と分かれて別行動をとり、【銅鐸文化】を持って日本海寄りに南下して対馬に移動し

更に北九州糸島半島に上陸して伊勢国(イスラエル人の国)を建てました。

BC74年、秦韓のユダヤ人亡命者らが、東表国(宇佐八幡宮)エビス(世襲名)王から背振山脈

一帯(佐賀県)を割譲されると対馬経由で北九州博多へ移動し、糸島半島の伊勢国と協定して

吉野ヶ里と鳥栖の地に倭奴国を建てました。これを伝え聞いた南越の秦王が率いる苗族・ヤオ族

たちも合流して、シメオン族の族長・大国主命(世襲名)を推戴して倭奴国としました。

AD1年、北夫余後期王朝、穢王一族の知将・陝父が高句麗から亡命し、日本海寄りに南下して

北九州に上陸すると、既存勢力の伊勢国や倭奴国に遠慮して、阿蘇山系に至り、熊本に

多婆羅国を建てました。この多婆羅国(クシャトリア系ガド族)は、やがて朝鮮半島南部に

分国・多羅国(直接、国を担ったのは、ウラルトゥ人)を造りますが、これが後に百済国になります。

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中国4000年といいますが、秦以前の中国史は、オリエントから来たアーリア人・シュメール人

織り成したものであり、漢字もその人々の文化でありました。

秦時代以降、その主要なる人々が西に東に散った後、残った人々が漢人と思われます。

殷周の時代とは、シナ大陸がカルデア人の海人に支配されたり、アッシリアの流刑地であった

歴史でした。春秋戦国時代とは、アッシリアの亡命者がしばしば中国に逃れた時代であり後には

ペルシアの遠征隊が中国大陸でウラルトゥ、キンメリやクル族、コーサラ、マガダなどの移民団と

戦った歴史でありました。秦帝国にしてもアレキサンダー大王が作らせたグレコ・バクトリア王国の

中国に於ける植民市でした。それでは、秦以前の中国の先住民は、どんな人々であったか?

バビロンからタイを経て山東半島に進んだ苗族、インド洋を越えて渡来したフェニキア人、彼らは

混血してミクロネシアになります。フェニキア人はインドでアヨーディア王国を作り、沖縄に巨石文化

を作りましたが海没して九州に移動し、さらに朝鮮に進んで駕洛国の金氏になりました。この後

ナーガ族の朴氏が沖縄に移ります。陸路のシルクロード経由のチュルク人、ウラルトゥ人

ウイグル人、キンメリ人などの匈奴がいました。さらにアレキサンダーに率いられたユダヤ人と

バビロニアの遠征部隊がいました。マガンの移民であったシャキィ(サカ)族やヤードゥ族もいました。

そしてシャキイ族を主流としたイ瓦人の子孫を始めとして、クメール族、ナーガ族、ムンダ族を

包括して北倭といいました。要するに秦の侵略によって雲南省と満州、朝鮮に分かれた人々が

中原の文化的先住民でありました。始皇帝が即位した時代には、既に万里の長城も北東には

山西省の大原あたり中山国の故地から移ってきたヤードゥまたはシャキィ族(サカ族)が率いる

【東胡】がいました。西方内陸部には【匈奴】が、長城の内側にはカルデア人の【燕】がありました。

それ以前には、【趙国(大扶余)】は、燕の西、中山国の北にありました。

BC206、項羽(エウチデムス)により秦帝国滅亡。中国人の治め難さを知って項羽はインドに転進。

BC202年、劉邦らが秦の遺産を引き継いで漢王朝(前漢)を建てました。

BC141年、漢の武帝が即位。 

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25年、中国に後漢興る。

57年、倭奴国王・大国主命(世襲名)が後漢に朝貢し、漢の【倭奴国王】の金印を受けます。

67年、この頃、仏教が中国に伝わる。後漢がしきりに東夷諸国の入貢をうながす。

107年、倭王エビス王54代師升が、後漢に朝貢しました。

124年、高句麗が漢の西安平郡を討って帯方令を殺し、楽浪太守を捕え、これより、東アジアの

覇権を競う【倭の大乱】・・・漢と東夷の戦いが始まりました。

147年、高句麗が倭奴国を攻撃・・・東夷同士の戦い。

当時の東表国(豊日国・駕洛国・金官加羅)は、朝鮮と九州をワンセットとする海人族の強国で

1000年も続いた天の王朝でした。吉野ヶ里の倭奴国は、その同盟国でした。

この時の東表国エビス王は、55代海部知男命ですが、これより高句麗と敵対関係に入りました。

163年、東表国エビス王海部知男命は、倭奴国王・大国主命と連合して、高句麗と同盟していた

ガド族系猿田彦の伊勢国を攻撃し、その太陽神殿(平原王墓遺跡)を破壊して、古墳内の

超大型青銅鏡をことごとく破砕しました。神聖な祭殿を壊され、国を奪われた猿田彦らは

二手に分かれて亡命移動、まず一隊は日本海を北上して山陰地方に至り、同族ガド族の

先遺隊であった鉄鐸・銅鐸文化の牛頭天皇のクニ【出雲王朝】へ参入しました。

【神皇紀】は、作田毘古(猿田彦)命が猿の曲舞をしたとし、この人々のトーテムを猿として

卑しめるが、これはユダヤ系北朝系の作者が南朝系の人々を差別したものか。

【サルタヒコ】は、エルサレムの漢字表現で、南朝系と同盟したガド族を表す【猿田彦】を

リーダーの名前としたと思われます。

次に、もう一隊は瀬戸内海を東遷して奈良盆地の同族コロニーに参入しましたが、さらに

東表国+倭奴国連合軍の追跡の手を逃れて紀州から志摩半島に至り先住民の奈津三毛族(苗族)

と融合して新しい【伊勢国(伊雑宮)】を建てます。出雲神話の【因幡の白兎】は、インド叙事詩

ラーマーヤナの【猿の橋神話】がユダヤ人亡命者によって運ばれ脚色されたものです。

鉄鐸・銅鐸文化は九州に起こって出雲の伝わり、さらに近畿地方へと広がっていきました。

これと猿田彦一族の移動経路とは正確に対応しています。






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最終更新日  2008/05/25 07:58:43 PM
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