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2012/05/02
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カテゴリ:カテゴリ未分類
数万年前まで日本列島は中国大陸とつながっていて、シベリヤの
バイカル湖あたりから古モンゴロイドと呼ばれる人々が今の日本列島
の地へと移ってきて、1万年近く続いた縄文時代の担い手になりました。
彼ら古モンゴロイドの言葉がアイヌ語に僅かに残り、それはそのまま韓語にも
通じるといいます。むしろ韓国語のほうが日本語よりアイヌ語に近いといえます。
(日本語) (アイヌ語)  (韓語)  
神     Kamui    カム、コム
川     nai       ネ
寒い   chamusi    チュブ
またアイヌ語はネイティブアメリカンの言葉にも近いとされます。
18.jpg
ユーラシアの北方にはアジアからヨーロッパまで坦々としたステップ地帯が
連なっています。狩猟民族はマンモスや鹿を追いかけてユーラシア大陸を
抜けて北東のシベリアへ進み、さらに南北アメリカに渡たりました。
温暖の時は北方へ、厳寒になると南下して陸続きの日本列島にも渡って来ました。
約1万年前に大陸の端っこの陸地が海面上昇のために分断され
日本列島が出現しました。朝鮮半島と日本列島をつないだのは船でした。
半島からイカダを出せば海流に乗って簡単に列島に流れ着いてしまうのです。
韓国・釜山市にある東山洞貝塚は5千年前の朝鮮半島と日本列島の絆の地でした。
そこからは九州産と見られる縄文土器や有田の黒曜石などが出土しています。
一方、対馬や九州北部の遺跡からは当時の朝鮮半島産の土器が出土しています。
釜山市辺りは昔、金官加羅国があった所で、砂鉄を生産し周辺諸国と鉄貿易が
盛んでした。 金官加羅は、九州の国東半島に本国があり、釜山はその出先機関
もしくは植民地でありました。これを【面土国】といったのは【九州は四面あり】と
いうように、四面土国を省略した言い方で九州国というほどの意味でした。
r-kartn1.gif
九州北東部にあった東表国(豊国)の倭人は【南倭】といわれ、日本の天皇家(南朝)は
この国家の王家とは直接の関係はありませんが、史書のうえでは、東表国の王が
孝昭から開化までの天皇(北朝)になっています。
ところで、【晋書】は【卑弥呼は宣帝の平げる公孫氏なり】と述べます。
原文は、【漢末倭人乱攻伐不定。乃立女子為王。名日卑弥呼。宣帝之平公孫氏也......】
この卑弥呼が、記紀では事代主命の娘、神武妃ヒメタタライスズになっているのですが
記紀は大物主の軍団に【大來目】がいたと記しますから、遼東の公孫氏には
クメール人(古コメル族)またはその支派の瓦族がいたことは間違いなく
この時、満洲と朝鮮に残留したクメール人または北倭が、後に扶余王依羅(崇神)が
倭の地に逃れたあとで、唐に敗れた高句麗人を収容して渤海国をたて
さらに外蒙古では蒙瓦室韋となり、後に蒙古族になりました。
ですから、ジンギス汗はもともと北倭の王だったのです。 
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南倭もまたBC1000年頃、ガンジス河口から採鉱のために、タルシシ船に乗って
九州にやって来たエビス族の一派でした。国東半島の重藤遺跡によれば、彼らが
この地に上陸してトーテツ文の土器や青銅器を作り、これを殷に運び、また盛んに砂鉄を
採って製鉄を行っていたことが判ります。 
【北倭記】は国東の倭国を【東表国】として【殷(箕子朝鮮)と姻たり】とするのですが、後に
この国は面土国といい、駕洛国といい、金官加羅ともいったのです。
この金官加羅の王族から分れたのが新羅の金氏であり、後の蘇我氏になります。
穢国の(扶余後期王朝)の王、ニギハヤヒは熊本にあった多婆羅国の王で、これが
後に新羅の昔氏になりました。また沖縄の狗奴国の王・南解次々雄または長髄彦は
新羅の朴氏になりました。神武天皇は実は扶余(前期王朝)王、仇台(神武)のことで
扶余と公孫氏が連合して、多羅婆国を併せて邪馬壱国を作ったのです。
なので日本史で倭人と云うのは、大別して、九州の金官加羅国の【南倭】と
公孫氏の分国であった邪馬壱国の【北倭】を指します。
このうちの【南倭】が朝鮮半島南部の駕洛地方に展開していたのでした。
東表国または金官加羅国の王家は箕子朝鮮のカルディア人と対婚したアラビア海の海人で、
インドのガヤに中間基地があったらしい。この人々はBC1000年頃、ソロモン王のタルシシ船
でマレー海域から北上して、北九州の国東半島で製鉄基地を築いたのですが、タルシシ船
にはヒッタイトの鉱人がいて、ハットウサの地名によって宇佐八幡と名付けられました。
この国の人民は猪族と南倭で、南倭の方はカーシ族の信仰を維持していました。
宇佐の原神はバンコとトウビョウであったといいますが、バンコは猪族の犬神信仰でしたし
トウビョウはもともとカーシ族のトウレンという蛇神信仰でした。 
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【旧唐書】は倭国と日本国を別の国として扱って
『倭国は古の倭奴国である...-四面に小島、五十余国あり。その王は阿毎氏であった。
一大率を置いて諸国を検察し、みなこれに畏付する--・・衣服の制はすこぶる新羅に類する』
と述べていますが、【新羅に類する】というのは当然で、新羅は面土国または金官加羅国から
分れた国だったからです。
【四面に小島がある】というのは、いにしえの九州を四面といったからです。
ここで委奴国(秦王国)というのは九州北東部にあった面土国の金官加羅国が馬韓に
領土を分けて作らせた国で、後に邪馬壱国に征服されて秦人は去り、邪馬壱国のなかの
奴国になります。邪馬壱国は福岡の伊都国、吉野ヶ里の倭奴国(奴国)、熊本の多婆羅国、
日向の安羅国などの連合国家であって、この内、多羅婆国の王がニギハヤヒでしたが、
王姓を阿毎氏といいました。
記紀は『神武が十種神宝とともにこの姓をニギハヤヒから貰った』と書いています。 





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最終更新日  2012/05/04 10:35:43 AM


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