黄色人種と呼ばれるのは、体の表面がケラチン (角質)の薄い皮膜で
覆われているからだそうです。ケラチンは硬タンパク質であり、髪の毛や
爪や動物ではツノ、ヒヅメなどになる物質です。
どうして、ケラチンが全身にまで被覆したのでしょう。
それは、日本人の先祖が中央アジアのアルタイ山脈南部に起源をもつからです。
現世黄色人種の祖先が形成される時期は、少なくとも4万5千年前から4万年前
という、ネアンデルタール人からホモ・サピエンスが出現する以前の時期まで遡ります。
そして、数万年という時間をかけての、この時期での環境適応の結果がケラチンの
全身皮膜なのでした。人類の皮膚の色まで変化させる壮絶な環境とは
いったい何だったのでしょう。
4万年といえば氷河期です。人類が等しくこの試練を受けたとはいえ
白人種と黄色人種の祖型では、その影響の受け方がちがっていたようです。
氷河の近くに住んでいた、とくに北欧人などは、太陽の紫外線を吸収しようとして
皮膚に太陽光遮断の役目をもつ色素などもたない体質に、白人とは色素が白い
のではなく、無色人種なのだそうです。
黒人は紫外線の強かった地中海地域に住んでいたため遮断するために
色素、メラニンを全身にはり巡らし
黄色人種は、わたしたちの先祖は黄砂を避けるために山岳の樹林地帯に逃げ込む
より道がなく、その原生林の中でもそう楽ではなく、樹皮の刺傷や虫害を防ぐためにも
黄砂の嵐のなかと同様に角質でもって全身を覆うよりほかなかったといいます。
こうしてユーラシアの大陸、なかでもアジア大陸の内陸と呼ばれる広大な地域
にあって日本人の先祖は自然の猛威から逃げに逃げ、移動に移動を重ねるうち
皮膚の色まで変色していったのだといいます。
そして、またこの移動という側面が、日本民族の形成に大きく関係してくるのです。
日本民族の祖型も漢民族の祖型も、新石器時代に入る前までは
うっそうとしたシベリア原生林の中で狩猟一本槍の生活だったと認められます。
もっとも樹海を貫いて流れる大河のほとりとか、点々とする湖水のほとりでは
漁撈もしていたでしょうし、獣肉や魚肉のほかに野生植物、果実、根なども
食していたでしょう。また彼らはトナカイを飼育し移動の際の運搬に牽かせたり
乗り物にし、また乳を飲用に、肉を食用に、しかもトナカイは草を食べずに森林地
に生えるコケ類を食用とするので願ってもない家畜でした。
ところが氷河期が終わったところで、いよいよ原住地のほかの仲間が新石器時代
文化をつくろうとするとき、一部の人類が、この故地を捨てて移動に踏み切ります。
これが日本人の祖型と漢民族の祖型になります。間氷期において、タリムとアラシャン
とゴビとオルドスという広大な湖水群が氷河湖となり、ほかの地域の表土がこの氷河湖
の底に堆積し、氷河湖が乾燥して干上がって砂漠化してくると、その黄土がシベリアの
寒冷型移動性高気圧に巻き上げられて、東ばかりでなく北に飛散してくると、彼らは
どうにも防ぎきれなかったので移動を始めたのです。
また移動せずに原生地に残された日本民族の祖型は、一部はモンゴル的モンゴロイド
の中に編入され、一部はトルコ的モンゴロイドと混血し、さらに他の一部はイラン的ユーロポイド
で、後に大月氏のまたは禹氏の祖であるトハリ族と部族連合をなしたという痕跡を残します。
日本人の祖型の主流は樹林帯の棲息した狩猟民族の姿のままで、よりよい樹林帯をつたって
南下したしたと考えられます。アルタイ山脈の西部と天山山脈北鹿の間の故地から
ジュンガリア廻廊を南下し天山の南麓をつたわって西方に進み、さらにパミール高原
の東麓にそってタリム盆地の西辺をぐるりと迂回し、パミール高原がおわるところで
一部はカラコルムからヒマラヤに入ったと考えられています。ほかにも行き方は何通りか
あったようですが、彼らはヒマラヤに登り、崑崙の常緑広葉樹林帯に移動したのでした。
ちなみに漢人の祖型はカラコルムから南へ移動し、黄河上流のデルタをめざしたようです。
また一部は揚子江にくだって野生の稲をみつけるという幸運な恵まれています。
日本民族の祖型にも四川から揚子江へと漢人と同じ道をくだった一隊もあり、二民族の
交錯もあったとおもわれますが、ただ日本民族の祖型は、トナカイの代わりにカモシカを
伴侶としながら照葉樹林対の山岳地帯の緑辺を辿って大巴山脈から山東の泰山山系に
行きついたことが漢人の祖型とちがっていました。そして中国大陸にあって、日本人の祖型
は漢人から【夷族(異民族)】とされたのです。
こうした移動は1回や2回ではなく何回も何回も数家族単位で連続して居住地を
移行していったようです。7千年~8千年前頃、旧石器時代の終わり頃に始まった
とされ、その頃の人口はそれほど多くなく、人口の増加は新石器時代の農耕文化
が定着集落をつくりだして以後のことでした。