Mr.H'sBLOG・・好日夢譚

2017/09/13(水)17:47

いつか来た道、古新聞で読む「昭和六年」(6)

いつか来た道、古新聞で読む「昭和時代」(28)

​昭和二年以來の長引く不況で 都市部では多くの会社が倒産し、 就職難の者(学歴難民)や失業者があふれ、(昭和6/08/22 東京市の調査で、市内の浮浪者は2500人と判明。)『大学は出たけれど』の言葉が流行り。 農作物は売れ行きが落ち価格が低下し(昭和6/01/09 前年の生糸輸出高が昭和4年に比べて半減) 冷害・凶作のために疲弊した農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増して社会問題化する中。   昭和6/4/14 浜口内閣が倒れ、第二次若槻内閣が成立するも、汚職の続く政治家や失策の多い政党内閣に対し、軍部には強い危機感が生まれており、 新聞も「満蒙(満州とモンゴル)は日本の生命線」とまで囃し始め、失業や農家の二三男など国内で生活できなくなった人々が大陸へ渡るケースも増えていった。 昭和3/06/04 の張作霖爆殺事件後、左遷された河本大佐の後任に満州に赴任していた石原莞爾関東軍作戦主任参謀や 板垣征四郎関東軍高級参謀、土肥原賢二奉天特務機関長らは 政党内閣を 当初からなめきり、爆殺事件後も密かに関東軍による満蒙領有計画を着々と立案していた。 そして、 昭和6年(1931)9月18日、関東軍は、奉天北部の柳条湖において南満州鉄道の線路を自ら爆破し (爆破されたたふりをして)、これを中国軍の仕業として中国軍の寝込みを襲い、攻撃を開始した。 (満州事変)勃発 その折の新聞が(添付 9月20日付け東京日日新聞、及び9月25日付け大阪毎日新聞号外)で 直後に偽装の証拠品を、生々しく(それらしく)一般国民に迄 公開しているのは、いかにも 謀略の特務機関!   若槻政府の不拡大方針や、陸軍中央の局地解決方針を無視して、自衛のためと称して戦線を拡大し独断越境した朝鮮軍の増援を得て、管轄外の北部満洲に進出し、 翌1932年(昭和7年)2月のハルビン占領によって、関東軍はわずか5ヶ月で東北三省(満州)を占領。軍事的には まれに見る成功を収め、国民は歓呼の声を挙げた。 これで政党内閣の軍に対するブレーキは 既に浜口内閣の統帥権干犯問題に端を発して壊れかかっており、これ以降、関東軍は勝手に国策を決定して実行するようになった。 出先の部隊が軍中央部の命令に従わず独断専行しても、結果さえ良ければ褒章を受け、昇進することはあっても処罰されることはない、という風潮が広まり。軍部の独断専行が日本を専横し始めた   現代でも、某学校法人・二校を巡り、霞が関官僚らの人事が大きな批判を浴び、特に財務省理財局長や経産省出身の首相夫人秘書官等は その折の見え透いた口裏やぼろ隠し、辻褄あわせに、処罰されることなく優雅に昇進し、後に続く内閣府役人等も目白押しでアンチテーゼだが・・ 石原参謀以外の 板垣征四郎(第一次近衛内閣時:陸相)、土肥原賢二(終戦時:大将)は極東軍事裁判にて満州事変謀略により、絞首刑となるも、現在は靖国神社に合祀されている。  石原参謀の戦中・戦後史はいずれ又・・  ​

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