2019/07/23(火)05:23
花筐(はながたみ)継体王朝 その 9
治世五年(511年)10月 何かと手狭になった葛葉の宮は 事実上皇太子である勾大兄皇子(まがりのおいねのみこ)に東宮御所として与え、男大迹王はその弟(いろと)高田皇子(たかたのみこ)を護衛も兼ねて供をさせ御幸し、皇居を新装なった筒城宮に遷都した。 (現在の京都府京田辺市多々羅附付近・・現在の同志社大学新校舎の程近くで、
葛葉の宮とは洞ヶ峠を越え南西に二里余り この辺り北流する木津川左岸の見晴らしの良い高台で、葛葉の宮との物流にも何の支障もない) 勾大兄皇子は 豊彦王(とよひこのみこ)を伴い、神前(かんざき)姫 共々御礼に
筒城宮を訪れ、御年二歳になられた、広庭(ひろにわ)尊と五歳の豊彦王(とよひこのみこ)が、まさに御名の通りの広庭にて連れ歩き、遊び戯れるお姿は、此の折 白髪の翁、御年六十九歳の男大迹王と嫗(おうな)の如き目子媛をはじめ奉り、うら若き 手白香皇后と勾大兄皇子の妃 神前(かんざき)姫のお二方の母君も、平和そのものの皇室を演じておられた。 事実上、大伴・物部始め大和の豪族は 男大迹王と手白香皇后との皇子 広庭(ひろにわ)尊には、今だ御幼少でもあり、男大迹王の御子息 勾大兄皇子(この折五十四歳)・・(後の安閑天皇)、と一つ違いのその弟(いろと)高田皇子(たかたのみこ)・・(後の宣化天皇)までは、黙って日嗣を認める腹であった。 御歳を考えれば、逆らわずともいずれ、広庭(ひろにわ)尊に跡継ぎが期待できる訳なのだが、しかし・・、 それゆえに、広庭(ひろにわ)尊にとっては三歳年上の甥!にあたる勾大兄皇子
の皇子豊彦王 (とよひこのみこ)との 仲睦まじきお姿を
偶々、任那の日本府や百済の騒がしきこのごろの情勢につき奏上に参内した
大伴金村大連が 宮殿の柱の陰より複雑な思いでみつめていた。 幕末の浮世絵師 月岡芳年 画「大伴金村大連」イメージ