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カテゴリ:歴史
この折の三韓情勢を簡略に述べると、新羅が益々強大となり、百済はその後ろ盾を
日本に求め、任那の日本府を通し、遠き異国の文化や、或いは国を修める文物や 技術・その人材、又駿馬や宝玉・鉄の貢物を毎年持参し、何かと日本の軍事援助を 継体朝の外交は大友金村大連に全て任せていたことでもあり、治世6年目の 現実主義の男大迹王は朝鮮の経営に今だ乗り出す時期ではない事をよく理解しており、 勾大兄皇子は、事情があって、任那の割譲について関わることができず、後にこのことを知り、「気長足姫(神功)皇后は大臣の武内宿裲と共に、国毎に官家(みやけ)を設け、我が祖 誉田(応神)天皇が海外での我が国の守りとされ、長く続いてきた由来もあり、 これを割いて他国に与えれば、元の領域と異なり、後世長く非難を受ける。」と驚き、直ちに改めるべく河内の難波館に出向き、百済の使いに令して言った。 しかし「綸言汗の如し、父帝が事情を考慮し、勅を賜ったものに、子である皇子が、帝の勅に背いてみだりに改めるや如何に」と百済の使いに開き直られ、やむなく葛葉の東宮御所に引揚げた。 その道々 冷静に考えた勾大兄皇子は父君 男大迹王は きっと我が代ならず、その先々の将来も深くお考えの事と理解し、お控え奉ったが・・・ 、これは国論を二分する大問題となり、物部麁鹿火など 大和の豪族間も異論で割れ、他国の長、ひいては遠く九州の磐井の君も「男大迹王なにするものぞ」との気分を将来にわたり起こさせたに違いない。 事実かどうかは兎も角「大伴大連と哆唎(たり)国守 穂積臣押山とは、百済から賄賂をとっている」という流言もあったが、 これは28年後の 540年の某政変により、この処理問題が蒸しかえされ、大伴金村大連の失脚に繋がるという根深いものとなった。 男大迹王は単に無作為な事なかれ主義ではなく、和を尊び、日ノ本の行く末の先々まで熟慮し、苦慮した挙句、その割譲に踏み切られたが、更にその後の、深き御心による割譲は、それだけに留まらず、我が身を引き裂く辛いものであった・・・。 (但し 後の世に記録された『古事記』『日本書紀』正史には、時の政権の都合により、男大迹王の苦悩の想いは 見事に消され 一言も触れられていない・・) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 23, 2019 10:09:55 PM
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