H氏の見聞きした戦中戦後史(その7)
子供の事だから、当然、乗り物には興味がある。当時は、まだ馬車・・といっても、荷物運搬用で、人間が押す大八車より、やや大振りだった気がするし、車輪にも、ゴムタイヤだったと思う。 (昭和20年8月8日(水)毎日新聞よりscan・劫火から芽をふく銀座の柳下をゆく馬車,この日の新聞一面には,B29 廣島に新爆弾、落下傘付き、空中で破裂、相当の被害生ず・と掲載されている)うちの近くになぜか、その馬車の荷車があり、数軒隣の特攻隊帰りのお兄さんが、落下傘の絹で出来た白いマフラーなびかせて、それに凭れていた構図を思い出す。小倉の白銀町辺りに、蹄鉄屋さん・・馬の足に嵌める馬蹄を、ハンマーで器用に叩いて、釘を口に含んで馬の足に打ち込んでいたのを、飽きずに眺めていた。次に多かったのは、輪タク屋(うちの近くにあったが確か「黒猫りんタク」という名前だった)・・2~3名乗りで、大体、進駐軍の兵隊と、所謂 娼婦(・・パンパンと呼んでいたが・・)の相乗りが多かった。 (JR門司港駅に展示中の輪タク)余談だが、彼女らは、当時のしょぼくれた日本の男達より、余程度胸があった。英語など使えずとも、適当な英語らしい発音で、日本語をしゃべり、金や煙草等の品物を稼いでいた。輪タク屋のニイチャンと兵隊の間の料金の通訳で、「ア~ ウオマチ(魚町) ネ?」「キャンデー NO ネ?」「 シガレット OK ネ?」 てな言葉で自由にデレデレの彼らを操っていたが・・・この位の英語なら、横で聞いている子供でも判ったが・・・何といっても、子供達に人気は、進駐軍の乗り回すジープが格好よかった。時折兵隊が、ガムや御菓子を播くことがあり、子供達は「ギムミーチューイングガム!ギムミーチョコレート!」と群がり、訳知りの旧制中学に行っていた、11歳年上の兄貴からは、「そんな乞食の真似をするな!」と随分叱られたことだった。 (残念ながら、この写真はプラモデルです・・・・・)それでも彼らの運転マナーは良いほうで、舗装道路などない町中に、雨で出来た窪みに水が溜まり、それを跳ね上げて走ってくるので、若い女性が驚いて固まって居ると、ゆっくりと水溜りの前で止まり、にっこり笑って、「プリーズ、どうぞ」等とレデイファースト振りを発揮するものだから、大体、若い女性は、無愛想な日本人より、ハンサムな進駐軍にすぐ憧れたものだ・・・と幼いH氏なりに観察していたが・・・。接収された山田の弾薬庫の山の斜面を、ジープは今で云う4駆だったのか、自在に上り下りしていたのは、本当にアメリカさんの実力の凄さに驚いて見ていた。それに、時折、進駐軍の接収した、造兵廠と、山田の弾薬庫に通じる道を徒歩で一個小隊のアメリカ軍人が通ったりすると、こわごわ遠巻きで眺めたりしていたがそんな或るとき、少しだけ年上の僕が「クロンボ!」と叫ぶと、いきなり黒人兵士がそれを聞きとがめ、拳銃を抜いて、逃げる子供を寺の境内まで追いかけた・・事なきを得たが一時はどうなるかと、肝を冷やした。 その連絡道が雨で凸凹になると、当時初めてみた、米軍のブルトーザーで、削り、道を馴らしてしまうのも驚きだった。なにしろ、昭和24年に始まった、朝鮮戦争用に、数々の弾薬とともに、ナパーム弾などを、弾薬庫から四六時中運び出し、我が家の軒先を、じゃんじゃん通過していた訳だろう・・母親と長い時間並んで待ってやっと乗れたのは、白い車体のいすず自動車製の西鉄バス。ガソリン等潤沢に無い為、後ろに、窯を乗せて木炭を焚いて走る、「木炭バス」。兎に角、動くだけでも大したモンだった。それと西鉄のチンチン電車。八幡黒崎に住む親戚を訪ねて行く時には乗ったが、車窓からみる八幡中央町あたりは小倉と違って、一面焼け野が原で、皿倉山の麓まで、建物らしいものは殆どなく無残な敗戦の印象が今でも目に浮かぶ・・・。めったにないことだが、大分の親戚に行く時は、日豊本線の蒸気機関車の引くオンボロ列車に乗って行った。途中の大分 宇佐駅あたりは、旧日本軍の海軍航空隊基地があったが、傾いた鉄骨の格納庫の間に、」焼け焦げた、軍用機が断末魔の状態で主翼を空に突き上げていたのを、しっかり目に留めた事だった。間もなく、米軍が整備して飛行場にしたのか、昭和24頃には、朝鮮に出撃するジェット戦闘機の基地になったが、その頃、新制中学校と同居して校舎の足りない小学校で、二部授業の為、早めに帰宅する際、南小倉駅の線路沿いに歩いていると、突然、音も無く地上すれすれのジェット戦闘機が頭上を過ぎて行き、通り過ぎると同時に爆音が響き渡り、「なるほど音より早い飛行機だ」と腰を抜かす程驚いたのも今となっては忘れられない出来事だった。 (Lockeed F94c Starfire)これも余談だが、当時、小倉-宇佐間には米軍専用列車が走っていた。日本人で溢れんばかり混み合う三等車両列車と違い、車両は全て、一等車両で、将校らがゆったり座り、優雅に窓の外を眺めていた。かれらはこの列車に乗るのをとても喜んでいる様だった、何故なら、行き先プレートには「宇佐行き」と日本語で書く処を、英文で[For to USA]、と書いていたから・・・・ blogランキングへ楽天ブログランキング絵柄をポチッとクリックしてね!