カテゴリ:浜田省吾
『A PLACE IN THE SUN at 渚園 Summer of 1988』の上映が終了して4日。
そろそろ感動が薄れつつありますので以下は備忘録的に今回も発見したことを忘れないうちに書いておきました。 (※これよりネタバレ含みます) 1.前回も書きましたが、オープニング「路地裏の少年」をベース・江澤宏明さんはピックで弾いていました。 ならば2曲目のテンポが速い「終りなき疾走」も…と思いきやこちらは意外にも指弾き。 私だったら逆なんですけどね。 私自身も以前は「終りなき疾走」は指で弾いていましたから出来ないことはありませんが流れ的にそのままピック弾きだと勝手に思っておりました。 その後もテンポの速い曲はピックを使用していたように見えました。 2.これも江澤さんですが、「MONEY」の時は激しいダウンピッキング。 はい、私も同曲を弾く時は同じガンガンにダウンピッキングです。 昨今は途中で疲れてアップ&ダウンになるケースが多いですが。 私自身はリズムを取りやすいのは後者ですがやはりハードな曲であればダウンピッキングでしょう。 3.もう一つ江澤さん。ベースをやっているとどうしてもベーシストに目が向いてしまうのです。 「HELLO ROCK & ROLL CITY」のスタート時にベースブースから傾斜のある坂を降りてくる場面を見つけました。 あの曲はメンバーがずらりと横並びになるとすごく格好いいですからね。 しかし途中で止まったように見え、後ろを振り返っていたような感じでした。 止まったのはシールドケーブルがそれほど長くなかった、あるいは機材に引っかかってしまったからでしょうか? 私も経験がありますが本当は先端まで行きたいところがそれが出来なかったのは悔いが残るかもしれません。 映像では確認出来なかっただけでもしかしたら行けてたかもしれませんが。 4.どの曲だったか忘れましたが(「MONEY」か「明日なき世代」)、トランペットの小林正弘さんが梁邦彦さんのキーボードブースに入っていました。 トランペットの出番がないから?それとも梁邦彦さんを手伝ってたとか? 待機場所を兼ねてたという訳ではないでしょうが。 5.結構忘れられがちですがパーカッションのPeckerさん。 打楽器に囲まれて正面からはほとんど映らず、斜め上部から後ろ姿が確認できる程度。 どんなお姿だったのか当時も今も謎のままですが、メンバー紹介の際に大きく両腕を挙げていたようなかすかな記憶があります。 ほんの一瞬でも5万5千人から注目されるのはどんな気分でなのでしょうね。 6.前回、飛行船の行方を確認出来ましたが、降りたのはステージの下手というよりステージ下手前方、観客エリアの向こう側かもしれません。 チケット裏面の場内案内図には敷地内に野球場とテニスコートがあり、飛行船が降下している場面には照明灯らしきものが映っていたのでそのあたりであるように思います。 曖昧なので確認のためにもう一度観たいのですが上映が終わってしまった今では不可能です。 DVDが出なければ永遠の謎になります。 7.最後に、某曲で助詞が本来の歌詞と違っていたような気がしていたと書きましたが今回はっきり確認できました。 結論から言えば確かに違っていました。 具体的には「A NEW STYLE WAR」の歌詞で 「正義はバランスで計られ」のところ。 「バランスで」が「バランスに」 となっておりました。 岩熊さんが「一言一句間違っていない」と仰っておられたんですけどね。 しかし私はこれは間違いではなく意味を持った「渚園バージョン」と捉えています。 前後の歌詞を見ればわかりますが「正義」と「バランス」の2つの単語を繋ぐ意味での接続助詞である「で」に対して後者の「に」は「正義」という言葉が持つ意味に対しての解釈を求めるべく「バランス」という言葉が使用されたものであると考えます。 具体的には 「で」は「正義というものはバランス(均衡)によって決められるもの」 「に」は「正義という意味に対してバランスという名のある種の物差しを用いることで言葉自体に多種多様な捉え方が存在するということを伝えるもの」 ということです。 もっと深掘りすれば、この曲が収録されているアルバム「J.BOY」がリリースされた1986年当時の世界はアメリカ合衆国を中心とした自由主義陣営の「西側」に対してソビエト社会主義共和国連邦を中心とする社会主義陣営の「東側」が厳然と存在していました。 所謂「東西冷戦」と呼ばれるもので世界は二分化していました。 「で」の時は東西のそれぞれが持つ政治的思想、主義主張に加えて軍事力や経済力も含めた総称として「正義」という言葉が用いられたのではないかと思います。 それがソ連の書記長にゴルバチョフが選出されて以来、各方面で改革(グラスノスチ、ペレストロイカ等)が推し進められ、1987年以降は第二次大戦後に従属を強いられていた国々が次々と分離・独立。 ソ連邦が解体が始まり、社会主義陣営の強固な繋がりが崩壊しつつあったのが正に1988年当時でした。 同時に自由主義、社会主義の両陣営に与しない第三極の国々が台頭して世界の情勢図は冷戦時よりもより一層複雑化しつつあったのも1988年前後でした。 イデオロギー以外、それだけでは分けることが出来ない世界、これまでの価値観を大きく覆す世界が構築されようとしたのが渚園野外コンサートが行われた1988年を含む1980年代の後半。 正に均衡が崩れ、それぞれが訴えかける「正義」という概念に正しい答えは無く、互いの無理解から生ずる「新しい形の戦い」が始まることに対する警鐘を発出すべく歌詞を「で」から「に」へ変更したのではないかと思った次第です。 実際に1990年代から世界各地で民族間の地域紛争が多発。 世紀を超えて2000年代に入ってもそれは止むことはなく益々混迷は深まるばかり。 「9.11」で自由主義陣営の旗頭であるアメリカ本土が攻撃され、現在は対立を止める役割を持たねばならないはずの大国であるロシアが隣国を攻め続けている。 「これからみんなが生きていく時代はより複雑な世界に変わっていくんだよ」…と、省吾さんはそこまで考えて歌詞(助詞)を変えて当時会場に集まった若者達に訴えたかったのかもしれません。 訴えかける内容がたった一つの助詞によって大きく解釈が変わる。 そんな曲を書くことが出来る省吾さんは本当に凄い方です。 以上が今回の鑑賞で気になったこと、気がついたことです。 最後は大真面目に書きましたがもしかしたら単に省吾さんが間違えてしまったという可能性もありますが。 よく省吾さんは仰っておられますが歌詞の解釈は人それぞれ。 作者の手を離れた作品は受け取る側がどのように解釈をするかは自由です。 それが作者の意図と大きく違っていても。 もしこのことを訊く機会があったら何とお答えになられるでしょう。 ニヤリと笑って「うん、そうかもね」(省吾さんの声で想像)と…嗚呼、妄想が暴走する。 もうひとつ、楽曲とは関係ありませんがステージ上手の方に金髪でパンク的なヘアスタイルのスタッフが見え隠れしていました。 「FILMS」でも見えていましたので以前から気にはなっていたのですが。 1988年当時、映画の中に映っているお客さんを見ればわかりますが頭髪をカラーに染めるというのは一般的ではありませんでした。 スタッフの中にもそのようなスタイルの方はいなかったので目立ちましたね。 今頃どのようにされているのか興味があります。 1988年の夏の日の夢のような野外コンサート。 まさか35年後に映画となって蘇ろうとは想像もしていませんでした。 私が一番涙を流したのは本編が終わって「君が人生の時…」が始まった頃から。 曲のバックに映る観客の姿を見たら涙が止まりませんでした。 そう、俺もあの中のひとり。 すべては思い出の中。 あの日に戻ることは当然ながら叶うことはありません。 今回の映画で思ったのはあのような素晴らしい時間はその時でなければ経験できなかったということ。 即ち、大切なのはその時々を一生懸命に生きること。 今回の映画はそれを教えられたような気がします。 本当は今回の映画にはぜひとも嫁さんも連れて行きたかったのですが術後から一年は経過観察をせねばならないので一緒に鑑賞することは叶いませんでした。 もしDVDが出たら一緒に観ようと思っています。
最後の最後、映画館から長男の住むアパートへ戻る際に私が初めて省吾さんに出会えた岐阜市民会館の横を通ってまいりました。 通用口が見えますが、ここから関係者は出入りするのでしょうか? あの時は「出待ち」していて猛スピードで省吾さんを乗せていると思われるワゴン車が出てきました。 それがここ…だったかな~? 40年前の薄れゆく記憶…。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年06月06日 00時13分07秒
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