哲学。
去年あたりから大きく思考が変わりつつある。それに戸惑う反面、楽しんでいるところが大きい。右や左という分け方もあるけれど、人が人らしくいられるには、とか、もっと身近にいえば、子供と私が一番無理のない関係・遊びとは、と思い始めたところがきっかけだと思う。哲学的なものを学んでみたいなーなんて、漠然と去年の頭に思っていたけれど、あんまり意識せずにいたら、知らずにそちらのことを学んでいた。子供たち、震災、原発事故、演劇、ヴァルドルフシュタイナー、インプロ、仕事先で関わる学生たち。私の生活を取り巻く事柄、すべてにおいて、そして、私自身を見つめ直すことになった。哲学を学びたいと思っていたけれど、自分の中に哲学を見出した気分。いかに私が今まで情報を過剰に集め摂取し、工夫せずにうのみにし、依存して、結果、消化しきらないままパンクして思考せずにいたかを思い知る。表面を求め続けることは、永遠に終わりがなく、永遠に満足することはない。私自身を知りたいくせに、誰かがいいと言うからそれを手に入れようとして、結局誰かにはなれず、また別の誰かを追い求める。本当に手に入れたいのは自分のくせに。小さな違和感を見過ごさない。そこに隠してきた自分が潜んでいる。違和感は自我だと思う。思春期に親に反抗することで、自我を確立する。まさに生活の中にある反抗が違和感で、自我なんだと考えている。ついでにいうと、そこから表現は始まるとも思っている。小さな声や違和感に気付き、広げ、大衆化されたものにNO!と突きつけるかんじ。ヴァルドルフシュタイナーとインプロを学んだことはとても大きな変化に繋がった。どちらも検索すれば表面的なことはすぐ手に入れられると思う。でも、どちらも本質をかんじとらなければ、何もかも同じ。情報として手に入れることと全く同じ。情報として手に入れたところで、この二つ、あと、演劇・芝居が全く同じ要素を持っていることに気がつけないだろう。本当はすべてのこと、すべての生活も同じなのだ。本質は方法が違っても、絶対に変わらない。それが真理だと気づかされた。