2006/07/18(火)02:19
漂うイメージ
きょうは制作は休み。手紙の返事を書いたり、その他の事務的な仕事をかたづけた。その余は先日購入したカレル・ゼマンの1970年の作品『彗星に乗って』のDVDを見たり、読書をして過した。
『彗星に乗って』は期待したほどの作品ではなかった。創られた当時、少年向け映画の国際賞をいくつか受賞している。架空国ながらアラブ系の国とヨーロッパ系の国との1888年の戦争という筋立ては、ちょうど100年後(実際には20年,30年後)の現実を予見しているかのようである。が、いまや世界は湾岸戦争とNY9.11をTV中継で目撃してしまっているので、映像の魔術師ゼマンの作品といえども、もはや子供向けの寓話でしかない。さらに私にとっては、創られた当時に見た『悪魔の発明』の衝撃が強く、それを超える作品ではなかった。もっとも、どのように撮影したのだろうという技術的な驚きは、現在なにもかもをCGでやっつけてしまう映画作法にうんざりしているから、一層新鮮なのだった。
考えさせられたのは、1888年というような枠組はもはや有効ではないということで、そのことから考えをすすめると、絵画制作上の具体的な展望を拓くことができるかもしれないと思った。昨日書いた「新作のためのメモ」に通じることなのだが、いま、私の頭というか目の前というか、ぼんやりしたイメージが浮かんでは消え、消えては浮かんでいる。ミルトンの『失楽園』から突如やってきたイメージで、それが私の目にした現実と重なり、私はいまだ確信を持てないでいるので、影像が幽霊のようにふわふわと漂っているのである。
人に説明することもないが、このような時、私の想像はいくつかのコア(核)に別れていて、同時に漂っている。何かのきっかけで、多重空間を内包するひとつのマッス(塊)を形成することがある。このときこそ、「ユリーカ(見つけた)!」背筋を貫くゾッとする感覚。描いて確認をしないではいられない、私の作品制作のモチベーションとなるのである。