各地に大きな被害をおこしながら長雨がつづいている。みなさまのお住まいの地域では如何であろう。
さきほど午後4時ころ、猫のトイレの砂を買いに行ってきた。雨がつづくと猫達もベランダにも出られず、家のなかで退屈している。かわるがわるやって来ては遊んでくれと鳴く。高い高いをやったり、腹を撫でながら転がしてやると一時的に満足し、窓に駆け寄ってゆき戸外を眺めている。
レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿は、広範な観察記録やスケッチで知られているが、私は20年ほど前、その中の水の研究の実物を見ている。雨についてや、水の落下による流体運動についての記述とスケッチ、あるいは洪水の種々の様態のスケッチが、おそらく銀尖筆によるのであろう力強い筆蹟で紙に刻み付けられていた。
これら厖大な水の研究ノートは、1490年、1495~1505年、1508年と、およそ20年近い長期にわたるものである。レオナルドは大地の構造を人体構造にきわめて良く似た有機的な構造としてとらえていた。たとえば次のようなメモがある。
「非常に大きな河が大地の下を流れている。[CA.108 v.b]」
「水こそはこの乾燥した大地の生命液として捧げられたものである。大地の底に浸入し、たゆみない熱心さで枝別れした水脈を通って流れ、水分が必要なあらゆる個所に駆け付けるのだ。(略)[Ar.234 r.]」
事実、手稿のなかでは、水の渦と人体図が並んで出て来ることがある。このことは何を意味しているかと言えば、水の研究は必ずしも「絵画論」と同一ではないにもかかわらず、レオナルドの絵画概念の根本に水の研究が影響していたのだということ。
レオナルドのみならず、たとえば同時代のミケランジェロも人体に関する厖大な研究スケッチを残している。彼等の時代は、絵画は科学であった。自然観察と材料学とを極めたすえにうまれる科学製品、----それが、この時代の絵画である。
現代美術とは概念的におおいに異なる。その変遷の道筋をたどり、あきらかにするのが美術史である。
たとえば風景画ひとつとっても、----レオナルドの時代にはまだ純粋に風景画と呼ばれるものは生まれていなかったけれども----現代の風景画は、むしろ幻想画に非常に近接したところにある。現代の風景画から、科学的な目で見た自然を読み取るのは、およそやっかいなことであろう。画家はたとえ自然のなかに画架を立てて描いたとしても、彼(彼女)の見ているのは自然に仮託した自分の心象風景でしかない。現代風景画論がそれらの作品から汲み取るものは如何なるものなのか。私自身がかつて一度も風景画を描いたことがないので、いささか興味をもっている。
雨が降りつづく窓外を猫達といっしょに眺めながら、レオナルド手稿を思い出してのよしなしごとである。
上図:レオナルド・ダ・ヴィンチ『障碍の板をこえて流れる水、および濠の中に落下する水の習作とノート』[29A]